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<朝鮮通信使400年>「天皇の象徴性」通信使ら把握できず

2007.05.21 09:58
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京都東山区にある耳塚。壬辰倭乱当時、日本軍が豊臣秀吉の命によって朝鮮軍と良民を虐殺し、その証拠として鼻や耳を切り取った後、塩漬して送った跡だ。近くには明治時代に建てられた豊臣秀吉の豊国神社がある。



大阪を去って淀まで船で河川をのぼった通信使一行は1607年4月12日、ついに当時の日本の首都である京都に入った。

 
しかし通信使らに京都は言葉だけ都であって、実権者のいない賑やかな都市にすぎなかった。そのため大部分が1週間余り泊まって帰っていった。京都に住む天皇に対しては関心が少なく、接触もしなかった。韓日関係専門家たちはしかし、通信使が日本社会で天皇が持つ高い象徴性を詳しく察することができなかったことを限界だと指摘する。

京都は首都らしく多くの寺と派手な邸宅、そして人口も多かった。第1回通信使のとき、副使だった慶暹(キョンソム)は「海事録」に「通りが四方に通じ、財貨は山のようにあった。見物する男女の肩が触れ合い、足もぶつかって互いに踏み付けられる」と記録している。

京都で通信使らは時代によって大徳寺、本国寺、本能寺など3カ所の寺を主な宿所にした。すべて都心にあり、近くに天皇の御所と将軍の城があった。そのため通信使らは天皇と将軍の関係に関心を置くようになった。

1719年、申維翰(シン・ユハン)は「天皇がどこに住んでいるのか尋ねても返事はなく、また朝鮮人たちがそこを見ることもない。一体どんな官職なのかわからない」と書いている。彼はもちろん天皇が一時実質的統治者だったが、中世以後、将軍が国政を掌握してからは名前だけの存在だということ、そして政治と係わる実権はないということは分かっていた。しかし通信使らは日本の二重的政治体制とその背景・意味は詳しく知る由もなく、知りたくても情報を得る方法がなかった。 18世紀末、実学者李瀷(イ・イク)ら一部の知識人は通信使の記録を検討し、将軍ではなく天皇と会わなければならないと主張したが実現しなかった。そこで通信使を通じての朝鮮の対日外交は、天皇の存在は分かっているものの実体はまともに知らない状態で続いた。後日、実権を握った明治天皇は江戸時代、韓日両国間にあった友好善隣関係を無視した。ここには朝鮮が相手にしたのは江戸の将軍(徳川政権)であって、京都の天皇ではないという認識も後押しした。現在、旧方広寺の位置にあるのは豊臣秀吉を奉った豊国神社だ。明治天皇が即位すると朝鮮を侵略した豊臣秀吉を奉るために建てたものだった。

そのため200余年にわたった通信使の歴史の中、京都では政治的対立が見られた。方広寺大仏殿が舞台になった。この寺は豊臣秀吉が1595年に作られたが、翌年、地震で崩れたものをその息子の秀頼が1609年から再建し、1614年に完成させた。近くには壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時、日本軍が朝鮮の軍人と良民を虐殺した後、鼻を持ち去って作った「鼻塚」がある。今は耳塚と呼ばれる。1719年大仏殿で日本が宴会を開いたとき、通信使らはきっぱりと拒否した。当時、通信使を率いた正使である洪致中(ホン・チジュン)は「この寺は秀吉を讃える所だ。朝鮮の不倶戴天の敵なのにどうしてここでお酒を飲むことができるか」と断った。

通信使側が宴会を拒否したのには理由があった。直前の1711年の通信使のとき、日本側が通信使に対する礼遇を一方的に下げたが、これにまともに対応できず、帰国後、問責を受けたのだ。これによってこれらは同じような間違いを繰り返さないために一つ一つ名分を立てた。両国は善隣外交をしていたが、鋭敏な歴史問題に対しては緊張があふれていたことを示すものだ。

通信使が泊った寺は焼き払われて…

京都伏見区にある伏見桃山城の泉水閣。

京都は日本が誇る古都で、多くの歴史遺跡がある。しかし通信使と係わる遺跡は探しても見つかりにくい。両国の対立関係を暗示するかのように過去の跡が消されたからだ。通信使の宿所としていちばんよく使われた本国寺は、京都でも指折りの大寺院だ。創建当時、敷地が4万坪以上あった。この寺は日蓮宗という仏教分派の本山だが、後日、日蓮宗は日本の軍国主義と密着する。そのため、戦後に多くの規制を受けて寺の運営が難しくなると寺の跡地を売って京都郊外に移った。

1719年、通信使が泊まった所は本能寺だ。戦国時代、日本を初めて統一した織田信長が部下の裏切りで命を失い、その後、壬辰倭乱を起こした豊臣秀吉が実権を握るようになった歴史の舞台だ。1719年の本能寺も本来建てられた位置にあったわけではなかった。これも火事と江戸幕府末期の内乱で焼けた。今の寺は20世紀に建てられたもので、昔の姿は全く残っていない。

通信使派遣直前、使命団が徳川家康に会って国交回復を論じた伏見城も歴史とは程遠い。現在、観光地として知られるいわゆる伏見桃山城は、実は日本のある会社が昔の伏見城の位置に遊園地を作るときに一緒に建てた建物だ。関係のない位置にコンクリートで建てた建物であり、文化財的価値も全くない。本当の伏見城があった所には今は一般人が入って行けない明治天皇の墓がある。

それさえも昔の姿をおさめている所は京都北の大徳寺だ。ここは1607年第1回通信使から3回通信使まで泊まった所だ。しかしここにも両国の数奇で切ない事情が隠されている。大徳寺の付属寺院のうちの1つである高洞院の茶室庭園には大きな石が1つある。お茶を飲む前に手を洗うつくばいだ。ところでこの石は加藤清正が朝鮮を侵略した際に、漢陽(ハニャン)城跡から持って行ったというまさにその石なのだ。

◆ 協力ソン・スンチョル江原大史学科教授、仲尾宏京都造形大学客員教授



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