<朝鮮通信使400年>「天皇の象徴性」通信使ら把握できず
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京都東山区にある耳塚。壬辰倭乱当時、日本軍が豊臣秀吉の命によって朝鮮軍と良民を虐殺し、その証拠として鼻や耳を切り取った後、塩漬して送った跡だ。近くには明治時代に建てられた豊臣秀吉の豊国神社がある。 |
大阪を去って淀まで船で河川をのぼった通信使一行は1607年4月12日、ついに当時の日本の首都である京都に入った。
しかし通信使らに京都は言葉だけ都であって、実権者のいない賑やかな都市にすぎなかった。そのため大部分が1週間余り泊まって帰っていった。京都に住む天皇に対しては関心が少なく、接触もしなかった。韓日関係専門家たちはしかし、通信使が日本社会で天皇が持つ高い象徴性を詳しく察することができなかったことを限界だと指摘する。