주요 기사 바로가기

<朝鮮通信使400年>学者・文筆家たち集まって

2007.04.23 12:09
0



1607年3月23日、相島を出発した第1次朝鮮通信使一行は日本本土に第一歩を踏んだ。今の下関である赤間関に到着したのだ。釜山(プサン)を出発して24日だ。烽火台と連絡船で通信使船団の位置をきちんと把握していた長州藩は数百隻の船を浮かべて通信使らを迎えた。福岡藩から小倉藩、長州藩につながるリレー式海上道案内を何回も練習した結果だ。臨時接岸施設を通じて陸に上がった通信使一行は長州藩が敷いた赤い布の上を100メートルほど歩いて宿所まで移動した。

 
通信使らは日本本土の代表的関門都市であると同時に商業都市である下関の活気に満ちた姿に感嘆した。副使である慶暹(キョンソム)は使の記録である「海槎録」に「庶民の家が多く、市も並んでいる。神社と寺が丘の上にそびえ立ち、商売する船が海辺にびっしりつけており、いかにも秀逸な景色だった」と書いた。

一行は下関に4日滞在して休息を取った。「格別に通信使をもてなすよう」という徳川幕府の命を受けた長州藩は、通信使を率いた正使、副使、従事官3使はもちろん、下級船頭たちにも丁寧に応対した。これらは朝鮮人の食生活を研究し、通信使が泊まった地域には唯一ニンニクを提供したという記録が残っている。

3使は阿弥陀寺に、中官以下官吏と船員たちは引接寺に泊まった。1604年、徳川家康に会いに京都に向かった四溟(サミョン)大師は宿所である阿弥陀寺で1185年、8歳の年で壇ノ浦の合戦中、海に跳びこんで死んだ安徳太子の魂を称えた「赤間関夜泊」という詩を通じてである。阿弥陀寺には安徳太子の祠堂がある。これがきっかけになってその後通信使3使はすべてここに泊まり、詩を一首ずつ残した。しかし今残っているものとしては、1711年、8番目の通信使の副使だった任守幹(イム・スガン)の詩が唯一だ。

◆通信使の跡消した明治維新=長州藩は薩摩藩(今の鹿児島県)とともに徳川幕府を倒し、天皇主体の統一国家を立てた明治維新の中心地だ。同時に朝鮮を侵略し、満洲まで占領しようという征韓論の発祥の地である。ここの武士は朝鮮通信使と朝鮮文化の跡をすべて無くした。港に接した赤間神宮の宮司水野直房さんは「明治維新の時の阿弥陀寺が今の赤間神宮に変わって、ここに通信使の関連の遺物が多く捨てられた」と額縁の中に挟んであった300年前の任守幹の詩を取り出して見せてくれた。ここでの唯一の通信使遺物だ。紙には安徳太子の魂を称える文と小さな絵が残されている。赤間神宮は今年、朝鮮通信使400周年を迎え、任守幹の詩を文化財として登録する案を推進中だ。

同じ山口県の上関も同じだ。江戸時代の建物と通りをそのまま維持しているが、朝鮮通信使の跡はほとんど見当たらない。通信使客舎門をはずして正門として使い、同時に1748年、第10回使節団の港到着の絵を所蔵した超専寺が通信使の跡を見ることができる唯一の場所だ。

通信使らはここで本格的な文化交流を始めた。宮司の水野さんは「通信使が到着すれば勉強しようとする現地学者や文筆家たちが寺に集まった。意欲的に韓国文化を吸収しようとするここの人々に通信使一行は文も書き、絵も描いてくれた。どんなにこれをほしがる人が多かったか、そばで墨をする者が苦い顔をしたほどだと話した。

◆1980年代以後、通信使再評価=下関に変化の風が吹き始めた。1970年、釜山~下関間のフェリー就航で韓日交流が増えたからだ。ここに中央日報が85年に連載した朝鮮通信使シリーズと89年、下関市立博物館の朝鮮通信使展示会が起爆剤となった。現地郷土史学者である前田博司さん(73)はこのシリーズを見て朝鮮通信使研究に関心を持つようになった。彼は「下関市史に全部で11回立ち寄った朝鮮通信使が、8回来たと間違って記録されるほど下関から通信使の跡が消えた」とし「いまは市立博物館が通信使展示会を開き、2001年には通信使記念碑を建てるほどに変わった」と述べた。記念碑に書かれた“朝鮮通信使上陸淹留記念碑”の字は韓日議員連盟会長だった金鐘泌(キム・ジョンピル)元総理の作品だ。89年、展示会を準備した当時、下関市立博物館学芸士町田一仁さんは「我々が通信使の歴史と業績を忘れないことが両国が真の友好関係に進む第一歩」と強調した。記念碑中央には造船通信使の船が泊まった船着き場がある。頭をあげて遠海を眺めれば海峡の虚空を横切る関門橋の下を太極旗を掲げた荷船が水を切っていた。

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP