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香港版「サッチャー」の没落…筋金入りの習近平寄りだった林鄭氏、なぜ中国に裏切られたのか

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.04.06 10:41
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香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官(65)のニックネームは「ファイター(fighter)」だった。そのような彼女が4日、再任放棄を宣言した。リング上から降りると言って白タオルを投げたのだ。2017年に行政長官として香港政府のトップの座についた後、林鄭氏は香港デモ隊と戦い、香港民主主義の退行を批判する国際社会世論と戦い、パンデミックとも戦った。香港内外の批判にもかかわらず、徹底した親中路線を貫く林鄭氏の姿からは再任に対する確かな意志が見て取れた。しかし林鄭氏は結局その意志を曲げた。中国と香港の政治構造を考えると、林鄭氏の退陣には北京の意向も反映されているとみるのが妥当だ。

林鄭氏の後任として有力視されている李家超(ジョン・リー)氏(65)を見ると、中国政府の意志をはっきりと感じることができる。警察出身の李氏は中国の意向に沿って香港の反政府デモを鎮圧し、保安法執行を主導した。北京が林鄭氏を李氏に「選手交替」したという解釈が一部から出る背景だ。

 
林鄭氏の足を引っ張ったのは新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)だった。昨年末でさえ林鄭氏の再任は確実そうだった。別名「雨傘デモ」を含めて数年間続いた香港民主化デモを強硬鎮圧し、親中路線に忠誠を尽くした。しかし新型コロナ対処は後手に回ったうえ感染者が昨年急増し、北京から目の敵にされる決定的な契機を作った。あれほど習近平寄りだった林鄭氏だが、コロナ防疫に関連して鋭敏な北京の視線が痛かったという話もある。北京が林鄭氏に「損切り」したという意味でだ。

林鄭氏としては悔しく思う側面もなくはない。林鄭氏は典型的な実務型官僚に近い。専攻は政務ではなく都市発展計画などの実務だ。デモやパンデミックの風が静まり、実務感覚を発揮する時が来たと思ったら捨てられたも同然だからだ。ニューヨーク・タイムズ(NYT)の報道によると、林鄭氏は昨年11月、ある演説で「私は香港の将来は明るいと自信を持っている」とし「私があと30歳若かったら香港の発展に一層寄与し、一層発展された香港で、一層長く良い人生を享受することができただろう」と話した。そのように寄与できる道である再任を林鄭氏はあきらめた。林鄭氏本人の表情にも疲労がにじんでいた。昨年から一部では林鄭氏が「私に選択肢があるのなら辞めたい」と話していたと主張する音声ファイルの暴露もあった。

林鄭氏は典型的な立身出世の政治家だ。中国から移民してきた貧しい労働者出身の両親のもとに生まれた林鄭氏は物心つくころから全校1位を守り続けてきた。香港大学に進学した後は学生運動に身を投じたこともあるが、卒業後は着実な公務員として出世街道を突っ走った。公務員研修で英国ケンブリッジ大学に通っていた時期、中国人数学者の夫に出会って結婚もした。

林鄭氏が本格的に頭角を表わしたのは2007年。香港政府の都市計画を担当する発展局長として在任していた時だ。当時、香港で大論争となっていたものの一つが英国の統治を受けた時期を象徴する皇后碼頭(クイーンズピア)という建物の撤去だった。反対世論にもかかわらず、林鄭氏は「英国の残滓をなくすべき」という考えを貫徹させた。この時から中国政府は林鄭氏に注目し始めるようになる。2011年には不法住宅改築を強力に取り締まり、市民の支持を得た。行政家としては香港人の信頼を得たことになる。

翌年、当時行政長官だった梁振英氏は林鄭氏をナンバー2の政務司司長に抜てきした。首相に該当するポストだ。林鄭氏は香港のマーガレット・サッチャーとして表舞台で才覚を発揮するようになる。

その後、林鄭氏は2014年雨傘デモを強硬鎮圧して中国政府の心をつかんだ。2017年中国政府の支持を背に、林鄭氏は間接選挙である行政長官選挙に出馬して得た得票数は777票。1194票中66.81%を占めた777票は「ラッキーセブン」選挙という別称を生んだ。しかし結局林鄭氏の在任は単任で終わることになった。保安法をはじめ、デモやパンデミックで汚されたためにこれといった政治的遺産(レガシー)もない状況だ。

林鄭氏の後任として有力視されている李氏は、現在政務司司長を務めている。香港サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)は4日、「李氏の任期が始まれば香港は警察国家になるだろう」と懸念した。香港行政長官選挙は来月8日、林鄭氏の任期終了日は6月30日だ。

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