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【噴水台】国が傾くとき=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.11.23 11:13
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興宣大院君の父、南延君の墓を盗掘し破倫外国人の代名詞となったドイツ商人エルンスト・オッペルト(1832~1903)。彼は1860年代に3回朝鮮を訪問した時に見聞したことを本(『禁断の国 朝鮮への船旅』)に残した。

彼は本ですでに接した中国・日本と朝鮮を比較したりもしたが、「朝鮮人の産業技術と技量はアジアの他の民族に比べてはるかに劣る。こうなった決定的理由は抑圧的政治体制に起因する。…現在の政治体制が変わらなければいかなる発展も成し遂げられない」と酷評した。

 
彼は「朝鮮には寵臣(特に寵愛を受ける臣下)という興味深い存在があり彼らの影響力は王に匹敵する」として特定勢力の国政壟断を指摘した。国の司正業務に対しては「百姓の幸福のために官吏たちに行われた監視が昨今では政府自体を保全するために不満を示している百姓に対して行われている」と批判した。オッペルトは「諫官(王に直言し批判を加える存在と本に描写されている)という官職は単に名目上だけで存在する」と書いた。彼が見たものは40余年後に滅びる運命に置かれた「ヘル朝鮮」だった。

チョン・ビョンソク前コリアテック総長は先月に出した著書『朝鮮はなぜ崩れたのか』で両班(ヤンバン)の特権独占、権威的行政、搾取的租税制度を朝鮮末期の核心問題と指摘した。最近金鍾仁(キム・ジョンイン)議員が雑誌のインタビューで官僚社会の硬直性、大企業の貪欲、政界の無能を国家危機の根本理由に挙げたのと似た脈絡だ。

チョン前総長は「科挙制度は教育熱を鼓舞し、能力中心の官僚制を実現したという側面では寄与した。しかし試験が過度に観念的な哲学中心であり、実用的な教育ができなかったことで人的資源が浪費される結果を招いた」と診断した。彼は倭乱当時に日本に連れて行かれた「被虜人」のうち、平民・賎民はほとんどが朝鮮に戻ることを嫌がったと説明し、日本では技術者として待遇され、働ける機会を得て安定した生活が可能だったためだと分析した。「蔑視され衣食住の保障もない朝鮮にあえて戻る理由はなかった」ということだった。実際に10万人前後と推定される倭乱被虜人のうち帰還した人は数千人にすぎなかった。

チョン前総長は本のあとがきでこのように問いかける。「国家存亡の危機を迎えても責任を問うたり反省をせず根本的革新をできなかった朝鮮の伝統はいまでも続いているということなのだろうか」。

イ・サンオン社会2部副デスク

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