주요 기사 바로가기

<外交が力だ>(2)臨時政府の抗日外交…臨時政府領事1号の活躍

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.13 16:16
0
1919年秋、200人の韓国人労働者が英国に到着した。ロシアのムルマンスクで連合国指揮のもと働いて英国軍と共に撤退した人々だ。臨時政府パリ委員部が出たが、日本は彼らを中国青島に連れていくといった。英国政府は、韓国人をパリ委員部に譲り渡そうとしなかった。弱り目にたたり目で、彼らを受け入れると口頭で約束したフランスも国内世論を意識して、なかったことにしようと言葉を変えた。この時ロンドンとパリを行き来して両国政府の説得に出たのが臨時政府パリ委員部書記長黄ギ煥(ファン・ギファン、?~1923)だ。あちこち奔走した末に35人を救出した。その35人は在法韓国民会を設立した。当時韓国人はフランスを法国と呼んでいた。欧州で設立された最初の韓国人団体だ。韓国人労働者のために96年前に黄ギ煥がした仕事は、今の在外国民保護、領事業務であった。臨時政府の外交官が交渉を通じて国民を救い出した最初の事例だ。

米国に留学した黄ギ煥は1919年6月フランスにきて金圭植(キム・ギュシク)のパリ講和会議出席を補佐してパリ委員部の仕事を引き継ぐことになる。20年10月からはロンドン駐在外交委員も兼ねた。彼は親しいジャーナリストのマッケンジーと協議して「韓国親友会」を結成するなど韓国問題に関心がなかったヨーロッパ人の関心と同情を引き出すために努めた。21年李承晩(イ・スンマン)のワシントン会議出席を補佐するために米国に戻った後にもロンドンをしばしば往来して外交活動を継続した。彼は23年4月、ニューヨークで心臓病で亡くなった。

 
黄ギ煥の遺体は92年経った今もニューヨークのクイーンズのマウントオリベット共同墓地にさびしく埋められている。無関心の中で放置された黄ギ煥の墓は2008年ニューヨーク韓国人教会のチャン・チョルウ牧師に発見される。死亡当時、未婚で遺族がおらず墓の位置が忘れ去られたという。

国家報勲処は2013年、墓地を確認して位牌を大田(テジョン)顕忠院に安置すると明らかにしたが、3年になろうとする今まで進展がない。

報勲処の関係者は12日「遺族がいない独立有功者の遺体を海外裁判所の確認を経て国内に迎えるケースが初めてなので時間が多くかかる」と話した。

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP