주요 기사 바로가기

<外交が力だ>(2)臨時政府の抗日外交…総督府、臨時政府に危機感

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.13 13:30
0
日帝は臨時政府の外交活動に神経を尖らせていた。当時を記録した文書を見れば日帝が臨時政府の外交活動を「目の敵」にしていた事実が所々にあらわれる。1921年1月2日朝鮮総督府警務局長が日本の外務省外務次官に送った文書。

「いわゆる対韓臨時政府法務総長であり首相である申圭植(シン・ギュシク)は不逞(ふてい)の輩である朝鮮人10人余りと広東に到着し、中国南方政府の歓迎を受けた。不逞の輩である朝鮮人が過激な行動をしない限り、取り締まりを断行しにくく(中略)」。臨時政府の人々の一挙手一投足を監視していたことが分かる。

 
国史編纂委員会が出した『大韓民国臨時政府資料集』や独立記念館が公開した外交文書などによれば、日帝は特に上海に臨時政府が樹立された1919年から1920年代中盤まで臨時政府の活動を集中的に監視した。

1919年10月14日、駐日フランス公使が朝鮮総督の斎藤男爵に会った後に本国に送った報告書には日帝が臨時政府について収集した情報が入っている。「彼らの情報によれば韓国移民者が名実共に反乱政府を上海のフランス租界内に組織することに成功した。彼らが情報を補充した後、私たちにこの暗躍する政府の解散あるいは引き渡しを要請するようだ」。臨時政府樹立からわずか6カ月後のことだ。

1919年5月15日に駐上海フランス総領事館職務代行領事ウィルデンが駐北京フランス全権公使ポップに送った報告書。「日本側が『深刻な犯罪容疑者』と明らかにした韓国人3人に対する逮捕令状に連署してほしいと要請がきた。私はほかに方法がなく署名したが、当事者に秘密裏に危険を知らせた。実際に日本の刑事たちは目の前で獲物を逃してしまった」。

臨時政府の人々は上海の使節たちの助けを受けたことについて上海フランス総領事館を訪ねて謝意を表わした。1919年10月20日ウィルデン領事は安昌浩(アン・チャンホ)に会った後「私が相手をした彼らはみな韓国の名門の家柄出身で、真の愛国者であり自分たちの命も犠牲にする準備ができている」という報告書を残した。安昌浩はこの日、日本が逮捕しようとしていた臨時政府の人々のリストをウィルデン領事に渡した。文書で安昌浩は自らを「クァン・ジャク」、金九は「ドク・グベ」、李東輝(イ・ドンフィ)は「イ・ベク」、申圭植は「キム・ジェグァル」という仮名を使って書いた。

1920年6月朝鮮総督府警務局長は外務次官に「申采浩(シン・チェホ)を主筆とする独立新聞は、国家復興に関して激しい感慨を叙述したり帝国を批判したりする全くでたらめな言説を含んでいる。臨時政府の行動が危険水準に達したということを証明するには充分だ」とも報告した。

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    <外交が力だ>(2)臨時政府の抗日外交…総督府、臨時政府に危機感

    2015.08.13 13:30
    뉴스 메뉴 보기
    臨時政府は中国重慶で光復(解放)を迎えた。1945年11月3日の帰国に先立ち太極旗を持って記念写真を撮った。前列左から4番目が臨時政府最後の主席である金九(キム・グ)先生。臨時政府は帰国後も朴賛翊(パク・チャンイク)を代表にした駐華代表団を残して韓国民の帰国を支援した。(写真=大韓民国臨時政府資料集)
    TOP