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<外交が力だ>(1)旧韓末救国外交…抗日外交展開したロシア初代公使

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.12 17:17
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李範晋(イ・ボムジン)。大韓帝国のロシア初代常駐公使だ。1911年1月26日、李範晋は異国万里ロシアのサンクトペテルブルクで「神は、敵に復讐することも、敵を懲らしめることもできない無力な境遇に置かれました。自決のほかに何もできません」という遺書を高宗(コジョン)に遺して首をくくった。亡国外交官の恨(ハン)は100年が過ぎた今もそのまま残っている。

先月23日に訪れたサンクトペテルブルクのパルゴロボ3番地の北方墓地(旧ウスペンスキー共同墓地)8区域。かなり低いロシア人の墓碑の間で、なじみ深い韓国の碑石が高くそびえ立っていた。2002年7月に建てられた李範晋の追悼碑だ。彼の墓は75年、北方墓地の再整備過程で無縁墓という理由でなくなった。後になって韓国政府は彼が埋められたと思われる場所に追悼碑を建てた。追悼碑にはハングルとロシア語で「李範晋公使は1852年9月3日ソウルで誕生し1911年1月26日ロシア、サンクトペテルブルクで殉国した大韓の忠臣」と記されている。白い花束を献花したサンクトペテルブルク韓国人会のノ・ソンジュン会長は「距離が遠く頻繁に訪れることはできないが年に4回ぐらい息子と一緒に訪れる」と話した。

 
サンクトペテルブルクには110年前に李範晋が勤めていた大韓帝国公使館の建物がそのまま残っていた。5階アパートの建物の壁に「1901年から1905年まで李範晋ロシア駐在大韓帝国初代常駐公使が執務しました」と書かれた横1メートル、縦80センチの表示板がかかっている。韓国政府は2007年この建物の一部を買いとって記念館にしようと思ったが予算の問題で中断された。今年、再び推進しているけれどもやはり予算のために思わしくないと現地韓国人が伝えた。

李範晋は高宗がハーグに密使として派遣した李ウィ鍾(イ・ウィジョン)の父だ。1896年、俄館播遷を主導した親露派の巨頭であった。俄館播遷が失敗に終わった1896年6月に駐米公使として出国後、故国の地を踏むことができなかった。李範晋はロシア専任公使時期に「排日連俄」外交に専念した。ロシアを引き込み日本の侵略を防ぐ勢力バランス外交だ。だが1904年の日露戦争、1905年の乙巳勒約で日本の圧迫は強まる。日本に掌握された大韓帝国外務部は数回にわたり李範晋に撤退を強要する。だが高宗は「帰還命令は日本の圧迫に従ったことになるからロシアに残れ」という密書を送る。李範晋は高宗の命により公使館を守る。大韓帝国からの支援が切れるとロシア外務省から運営費を支援される。

1906年に在露日本大使館が本国に送った報告書には「李範晋が窮乏した生活をしていると思われる」という内容が含まれている。だが李範晋の救国外交は続いた。武装闘争にも視線を転じる。1908年息子の李ウィ鍾を沿海州に送ってチェ・ジェヒョン先生、安重根(アン・ジュングン)義士などが身を置いた義兵団体同義会の創設を支援する。李範晋が同義会に送った軍資金は1万ルーブルに達する。自決する1年3カ月前の1909年10月28日、李範晋はサンクトペテルブルクの現地メディア「レイチ」とのインタビューでこのように話した。「韓国人の不運は実に可憐だ。ところが私は、私たちの権利を回復する機会が到来することを期待する。日本人は私の肉体を滅ぼすかもしれないが、私の精神は永遠に滅ぼすことはできない」。

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