【コラム】自殺の抗弁も耳に入らない…(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.04.12 11:33
「工場のように効率性だけを強調して哲学はない」というKAISTの学生の絶叫に対し、徐総長は例の‘消防ホース論’で答えた。水を注ぎ込むような勉強の圧迫を乗り越えた精神的な糧を若い時代の徐総長は持っていただろう。ところが今は有効期間が満了したことを、時代との疎通網が切れた最近の学生たちには響かない古い哲学であることを知らないというのが問題だ。新世代の若者の精神的飢餓を満たしてくれる新概念の大義が必要なのだ。多くの科学者が冷笑する「移動埠頭」と「オンライン電気車」プロジェクトで名前の価値を上げて自分の方式ばかり押し通す独善総長には、学生の訴え、教授の反論が聞こえるわけがない。教授評議会がないKAISTで教授は保身を図らなければならない。それを嫌って自分の足で離れた教授がいる。日曜日には生物学界で有名な教授が首をつるほど内部問題を解消する自治機構がない。すべての講義を英語ですると創意性が出てくるのか、工業高校出身のロボット天才と科学高校出身の数学英才を同じ基準で評価する没個性的教育方式が科学韓国を実現させるかどうかも疑問だ。学生は、自殺した弟子の魂を慰めながら学生と手を握り合って涙を流す総長を望んだだろう。
KAISTの学生の連続自殺は若い世代に対し、経済奇跡の自負心で詰まった既成世代がどんなことをしたかを見せる極端な例だ。「世の中にただはない」という貧困時代の哲学でこの時代の若者をスペックの監獄に追い込まなかったのか、社会進入の障壁を高く積みながら越えてみろと余裕の表情で楽しまなかったか、勝者が成功のはしごを蹴り倒さなかったかを尋ねれば、誰がはっきりとノーと答えるだろうか。認めたくない事実が一つある。私たちの既成世代は若い世代に世の中を改善する方法を教えるのに失敗したという点だ。世の中を改善するというその歴史的使命に透徹した既成世代が、若い世代を締めつける時代構造を少しでも変えてやろうという点で、私たちのように疎かにした世代が他にあっただろうか。