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【コラム】独仏の戦争のわだかまりぬぐった学生交流、韓日でも通じるか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.03.16 10:43
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58年前の1964年、34歳のフランス人歌手バルバラ(1930~97)はドイツ中部ゲッティンゲン大学の学園祭に招かれた。万感が交差しただろう。10歳の時である1940年6月にナチスドイツの侵攻でパリが占領されてから1944年8月の解放時まで4年以上を死の恐怖の中で隠れながら暮らさなければならなかったためだ。バルバラはユダヤ人だった。

それでも運が良い方だった。同世代のアンネ・フランク(1929~45)はオランダ・アムステルダムの屋根裏部屋に隠れて暮らし1944年8月に家族全員がゲシュタポに逮捕され強制収容所に連行された。1945年ドイツ北部のベルゲン・ベルゼン収容所で16歳の若さで亡くなった。『アンネの日記』を残したユダヤ人の少女だ。

 
あえてユダヤ人ではなくてもフランス人のドイツに対する感情は良くない。一世を風靡したフランスの映画俳優アラン・ドロンは1968年に英仏合作映画『あの胸にもういちど』の撮影のためにドイツを訪問してから1994年にベルリン映画祭に招待されるまで一度もドイツを再訪しなかったという。

バルバラは何回も招待を断ったが粘り強い説得にゲッティンゲンを訪れた。行ってみたら約束したグランドピアノも準備されておらず、腹を立てて宿舎に入ったきり出ていかなかった。すると大学生があちこち駆け回ってピアノを調達してステージに準備した。

◇歌でぬぐい落とした長期にわたる敵対感

このように多くの辛酸と苦難の末に公演に出たバルバラは学生たちの熱狂的な歓呼に気持ちが解けた。そして現地にさらに数日滞在しながら曲を書いた。ドイツの都市の名前を題名に付けたシャンソン『ゲッティンゲン』の誕生だ。

歌詞は平凡に始まる。「もちろんそれはセーヌ川ではなく/バンセンヌ(パリ近郊の地名)の森でもない/しかし楽しいのは同じこと/ゲッティンゲンで、ゲッティンゲンで」。パリのようにベランダに花が飾られ、通りでは子どもたちが走り回り、互いに歴史的な共通点もあるという話が続く。あえて説明するなら、ドイツにも人が暮らしているという発見だ。ゲッティンゲンにきて公演し頭の中の敵対感が消え代わりに暮らしている人の姿に目が行ったという意味だ。

バルバラはフランス語で歌った歌が人気を呼ぶとドイツ語版も出した。この歌は木浦(モクポ)で『木浦の涙』が、釜山(プサン)で『釜山港へ帰れ』がそうだったように、すぐにゲッティンゲンを象徴する歌になった。注目すべき点はここからさらに一歩進んでドイツとフランスの若者たちがともに歌う歌になったという点だ。偶然な招待とこれを契機に作られたひとつの歌が戦後互いにぎくしゃくしていたフランスとドイツの戦後世代間で疎通と相互理解を促進した。5年前にゲッティンゲンに行ったことがあるが、バーで『ゲッティンゲン』を初めて聞き、由縁を尋ねてこうした驚くほどのエピソードを知ることになった。

【コラム】独仏の戦争のわだかまりぬぐった学生交流、韓日でも通じるか(2)

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