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麦4000株を抜き酷寒期訓練も…日帝の児童・女性強制動員記録物公開(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.08.14 07:21
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1944年小学校6学年だった10代初めのA君は朝鮮総督府政務総監の命令により強制労働に動員された。同年4月には開墾作業をしなければならず、5月には麦の黒穂(実が痩せ、病気で黒く変色したもの)を抜く仕事に選ばれて行った。最初は1カ月に4~5回の動員だったが、3月総督府から各学校に「学徒動員非常措置要綱」が出された後は回数が急増した。ひと月に15~20回労役に出る月もあった。一度黒穂抜きに行くと4000~5000株を抜いた。6~7月には草を刈らなくてはならず、8月には軍用航空機の油として使うために松の皮をむいて油を採取することも任された。

◆韓国政府、日本の児童・女性強制動員記録物公開

 
日帝強占期の朝鮮総督府が学生を強制労働に駆り出すために各道知事と直轄学校長宛てに送った「学徒動員非常措置要綱」と「学校別学徒動員基準」の内容だ。2つの文献には学校・専攻別に動員方針や期間・出動施設など児童強制動員に対する内容が詳しく収録されている。国家記録院と国立中央図書館、東北アジア歴史財団は13日、ソウル市瑞草区(ソチョグ)国立中央図書館で展示を開き、このような内容の日帝時代の児童・女性強制動員関連記録物35件を公開した。各機関の記録物を一堂に集めて展示するのは今回が初めてだ。

◆10代から強制労役→酷寒期訓練→戦争動員

この日公開された文献によると、日帝強占期の学生たちは在学時期には強制労役に、卒業後には戦争に動員された。学徒動員非常措置要綱などには小学生が上級学校進学後も労働力を強制徴発することができるように体格や労働履歴などが表示された。たとえば10代初めのA君について「鎌仕事の達人(鎌事達者)」と記された内容が目に入る。1943年、群山(クンサン)公立中学校学籍簿と留守名簿(一線派遣部隊の軍人名簿)を見ると、17回卒業生だったB学生は中学校在学時期にすでに酷寒期訓練を受けてその後に満州に徴集されたことが分かる。

1941年5月2日の毎日新報には「少年工を召す-産業戦士として忠北道(チュンブクト)で募集」という題名の記事が掲載されたりもした。「銃後(戦争の後方)の中堅産業戦士」という名目で満14~20歳の青少年を日本国内の工場で働かせるために徴集する内容だ。

専門家は、このような記録が朝鮮総督府が学生たちを労働力と兵力の源泉と認識していたことを立証する具体的事例だと説明した。国家記録院のイ・ヨンド学位研究官は「当時国民学校の学生たちがどのように労働力を搾取されたのか、その後中学校に進級して予備軍事訓練を経るなど、どのようにして戦場に連れて行かれたのか知ることができる」とし「各種刊行物を通じて日帝のこのような蛮行を国民に記録で紹介しようと思う」と伝えた。

麦4000株を抜き酷寒期訓練も…日帝の児童・女性強制動員記録物公開(2)

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