【寄稿】マッカーサーはなぜ韓国戦争で墜落したのか(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.15 10:49
丹東から鴨緑江(アムノッカン)の向こうの北朝鮮を眺めた。断たれた鉄橋の下に黙々と流れる川の水と手につかめそうな索漠とした新義州(シンウィジュ)を眺め、65年前に失敗に終わった統一の夢が改めて胸に迫った。中国の地にある彭徳懐中国義勇軍総司令官の銅像を眺めながら、仁川月尾島(ウォルミド)のマッカーサー銅像を思い出したのは筆者だけではなかったはずだ。
9月15日は韓国戦争(朝鮮戦争)の大反転ドラマとなったマッカーサー国連軍司令官の仁川上陸作戦から65周年となる日だ。この日は我々が記念し、また記憶しなければならない日だ。韓国が絶体絶命の危機から抜け出したことを記念しなければならず、「神の一手」のような上陸作戦の成功にもかかわらず結局は統一が水の泡となったことを記憶しなければいけない。
マッカーサー将軍の仁川上陸作戦は5000対1の成功確率の賭けだった。敵の意表を突いた果敢な奇襲作戦として米国の戦争史でも最も輝かしい快挙の一つと評価されている。マッカーサー自身が企画・監督した軍事戦略的天才性の極致だ。上陸作戦に続き、ソウル収復(9月28日)、38度線通過(10月初め)、平壌(ピョンヤン)奪還(10月24日)まではすべてが順調だった。統一に手が届きそうだったが、問題はその次だった。雲山(ウンサン)接戦(10月27日)以降に消えた中国軍を軽く見たマッカーサーは11月の最後の週、鴨緑江に向けた東西両戦線の総攻撃を命令し、クリスマスまでに戦争を終わらせると豪語した。しかし30万人にのぼる中国軍を鴨緑江近接地域の山の中に待ち伏せさせて誘引作戦を見せた彭徳懐の罠にはまり、「新しい戦争」に直面したという悲鳴を残しながら退却した。1951年1月4日にはソウルをまた敵軍に明け渡すしかなかった。当時ワシントンは敵軍が金剛まで南下する場合、日本に総退却するシナリオまで検討していた。