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<仁川上陸作戦63周年>成功率5000分の1の“賭け”が韓国戦争の形勢逆転に

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.09.13 10:58
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作戦名クロマイト(Chromite)。ダグラス・マッカーサー将軍が後日「成功の確率は5000分の1だった」と述懐した危険極まりない仁川(インチョン)上陸作戦の名称は、鉄鉱石の名前から取った。クロマイトという無意味な名前をわざわざ付けたほど作戦のセキュリティーも徹底させた。

15日は仁川上陸作戦63周年だ。海軍と海兵隊は13日、仁川の月尾島(ウォルミド)に安保展示館をオープンするのを始め15日まで戦勝記念行事を行う。15日、仁川近海では世宗大王艦など艦艇約10隻や航空機約20機、上陸装甲車20台余りが参加して仁川上陸作戦の再演行事を行い、マッカーサーの銅像に献花する。

 
1950年9月15日から17日までの3日間は、洛東江(ナクトンガン)まで押された韓国戦争を守勢から攻勢に反転させた日だっただけでなく戦史にも記録された日だ。軍事専門家たちは、仁川上陸作戦を第1次世界大戦時のトルコのガリポリ上陸作戦(ガリポリの戦い)、第2次世界大戦時のフランスのノルマンディ上陸作戦とともに世界3大上陸作戦の1つに数えられることに躊躇しない。イ・ハクス海軍士官学校博物館長は「仁川上陸作戦は、20世紀最後の大規模上陸作戦」としながら「ほかの上陸作戦で連合軍が多くの被害を受けたのとは違い、仁川上陸作戦時は味方の被害がほとんどなかったという点も、どれほど成功した作戦であったかを物語っている」と話した。

ガリポリ上陸作戦時の連合軍は20万5000人余り、ノルマンディ上陸作戦時は8975人の戦死者が出た。国防部軍事編纂委員会資料によれば仁川上陸作戦当時の戦死者は韓国軍と国連軍を合わせて15日に9人、16日に4人など計13人だった。

そんな仁川上陸作戦は一代賭博だった。作戦会議でほかの将軍が首をかしげるとマッカーサー将軍が「必ず成功する。誰もこんな軽率な(brash)ことをするとは思わないから」と話したというエピソードは作戦がどれほどの“冒険”であったかを表している。当時少佐として参戦したコン・ジョンシク元海兵隊司令官は「仁川近海は潮の干満の差が6メートルにもなり、満潮時間は2時間しかないだけでなく航路が入りくんでいて狭く、作戦が不可能な地形だった」として「米国内でもマッカーサー将軍を支持する人はいなかった」という。だがマッカーサー将軍は「陸地から反撃する場合は10万人の命を担保しなければならない」という論理で反対者らを説得した。

マッカーサー将軍は第2次世界大戦当時、背後地域の島に兵力を上陸させて後ろから日本軍を無力化した「Leap Frogging(蛙跳び、飛び石作戦)」で戦況を逆転させたことがある。北朝鮮軍が洛東江戦闘に没頭していて仁川は相対的に手薄になっていたため、敵の腰を折ることができるというマッカーサー(国連軍司令官)将軍の予測は功を奏した。

合同軍事大学海軍教官のキム・チャンソプ中佐は「戦争勃発直後、毛沢東は金日成(キム・イルソン)にソウル地域の防御のために仁川に堅い防御陣地をつくる必要があると忠告した」として「金日成はしかし洛東江戦線の兵力を穴埋めするために仁川側の兵力の一部を洛東江に送って防御を相対的におろそかにした」と説明した。連合軍は仁川上陸作戦の成功により13日ぶりとなる9月28日にソウルを奪還し、その後は平壌(ピョンヤン)を経て鴨緑江(アムノッカン)まで攻め上がることができた。

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