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<慰安婦生存者13人証言>1991年の証言まで韓国政府も背を向ける

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.14 14:21
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「ドタドタと(軍靴の)音がした。(そのように日本の)軍隊が逃げていった」(朴玉善さん)

「解放されたのかどうかも分からなかった。好きに行っていいと。お金は渡されず、手ぶらで出てきた」(金君子さん)

1945年8月15日、解放は突然訪れた。苦痛だった慰安婦生活から解放されたが、慰安婦被害女性にはもう一つの困難が待っていた。シンガポール・台湾・中国などで捨てられた彼女たちに故郷に帰ることは容易でなかった。苦労して貯めた財産を泥棒に奪われないか心配し、同胞の裏切りで故郷への道がふさがれたりもした。慰安婦被害者はほとんどが犠牲になっていた。「父の釈放金」(吉元玉さん)、「貧しい家庭」(李玉善さん)のために慰安婦に行った。しかし慰安婦だったという事実が故郷への足を引っ張った。

「(慰安婦として体が)このようになり、親に恥をかかせると思うと…」(朴玉善さん)

結局、多くの慰安婦被害者が中国に残ったり、他郷へ向かった。苦労して戻った故郷も冷たかった。コン・ジョムヨプさんは「家族がどこにいるか分からず、叔父を訪ねて商売の元手にするため麦を少し分けてほしいと頼んだが、断られた」と振り返った。

経済的な困難、冷遇などにぶつかった慰安婦被害者は安定した生活をするのが難しかったという。ほとんど他郷を転々としながら厳しい生活を続けた。

「天安(チョンアン)に行き、若い女性を置いて酒を売る店に通いながら、歌を歌い、酒を注いで…。3男1女がいる(夫人がいる)男の家に居そうろうし…」(吉元玉さん)

自責感のため、まともな結婚生活も難しかった。独り身の男や妻帯者らと同居または再婚した。2001年の女性家族部統計によると、慰安婦被害者の婚姻経験は51.6%だった。李容洙(イ・ヨンス)さんは「どういう良心で嫁に行くのか。親は亡くなる時まで、一人娘を嫁にも出せず目を閉じることになると言って悲しんでいた」と語った。

政府からの支援は期待できなかった。2004年に公開された韓日協定予備会談会議録によると、日本政府が「(徴用など植民地支配の被害を受けた韓国国民に)個人的に補償する」と提案したが、韓国政府は「内部で解決する」と答えたことが確認され、論議を呼んだ。韓国政府は65年に韓日協定を締結し、日本政府から6億ドルほど借款を受けたが、これはほとんど浦項(ポハン)製鉄(現ポスコ)や京釜(キョンブ)高速道路など経済開発に使われた。政府は解放から約半世紀が過ぎた93年に特別法を制定してから慰安婦被害者を本格的に支援し始めた。

もともと慰安婦問題の公論化は日本で先に始まった。73年に毎日新聞の元記者、千田夏光氏の著書『従軍慰安婦―“声なき女”八万人の告発』が出版されてからだ。80年代に入って挺身隊問題対策協議会など各種団体が設立され、韓国社会も慰安婦問題に関心を見せ始めた。

慰安婦の被害事実を初めて公開証言したのは91年、故金学順(キム・ハクスン)さんだった。しかし他の慰安婦被害者は家族の反対などで表に出てくることができなかった。92年に慰安婦被害者と申告した金福童(キム・ボクドン)さんは「申告する前に姉に相談すると、甥や姪がいるから絶対にしないでほしい言われた。(申告すると)私から離れていった。甥や姪も来ない。申告した後、さらに寂しく過ごしている」と語った。

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