【時視各角】非正常の正常化は青瓦台から(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.01.05 15:07
1780年夏、長い旅程の終わりに北京に到着した朝鮮使節団は、その時初めて乾隆帝が熱河にいるという事実を知ることになる。なんと、皇帝の住んでいる場所がどこなのかも知らなかった皇帝の喜寿祝賀使節団は、あたふたと東北に400里離れた熱河へと馬を走らせる。使節団に同行した思想家・朴趾源(パク・ジウォン)の紀行文の題名が『北京日記』でなく『熱河日記』になった理由だ。
ややもすると祭りが終わった後に顔を出すという不敬を犯すところだったのに、どれほど気が焦ったことだろうか。使節団が一息ついた頃、朴趾源はおかしな話を聞く。北京から熱河まで700里だというのは違っていると。筆談を交わした中国の官僚ハクソンが話す。「本来は700里だったが、皇帝がいつもこの遠方に滞在していたところ、親王や大臣たちが来るのを敬遠するようになった。それで皇帝が距離を400里に減らした。常に馬を走らせて直接来てものを申し上げろという意味だ」。