【時論】物語が願っていること:韓国映画『鳴梁』の是非(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.10.01 11:28
私たちは映画でもドラマでも史劇が作られるたびに歴史歪曲の是々非々があった。燕山君がコンギルと同性愛に落ちたという実録のただ一節に基づいた『王の男』は、歴史をかなり歪曲した映画であることに間違いなく思われるが、その後に告訴されたという話を聞いたことがない。金薫(キム・フン)の『刀の詩(邦題:孤将)』も李舜臣(イ・スンシン)とペ楔(ペ・ソル)を扱っているが、それもまた名誉毀損の是非にかかってはいない。これはまるで「援助交際」を扱うキム・ギドク監督の映画がわいせつの是非に巻きこまれるが、姉と弟の近親相姦を扱っても是非に問われない理由と同じだ。
しかし映画『鳴梁』のように、話のプロットが弱かったりなかったりした場合、すなわち単純なストーリーを羅列する場合、芸術性は言うまでもなく象徴性を見せた跡が全くないために一般的な観客はその映画を歴史や事実として受け入れる可能性が大きい。言いかえれば『刀の詩』では李舜臣とペ楔が内面的キャラクターとして作動し想像力をかき立てさせたが、『鳴梁』は説明して説得して規定しようとする態度を持つことによって、作品の中の人物が歴史的な座標を持つようになる。
あの歴史的に有名な『ボヴァリー夫人』もまた、わいせつの是非に問われた。ところで検事の起訴内容はボヴァリー夫人の「浮気性」のためではなく、フローベールの文体すなわち読者に「浮気性にかかるようにさせる雰囲気」だったということを考慮する時、作家の態度や作品性は今回の名誉毀損の是非の端緒になりうることを暗示する。私も文学・芸術作品の自由な想像を支持する。しかしこのような芸術性や虚構性が後押しされない時は、こうした是非にかかる可能性があることを作家と監督は知っておかなければならない。