【中央時評】自分の言葉に責任を持つ=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.10.10 17:12
もちろん専門家も神ではないため、間違えることもある。しかし自分の意見が間違っていたことが明らかになれば、その意見を信じた一般の人たちのためにも謝罪をしたり、誤った予測をした理由を釈明し、自分の言葉に責任を持つ姿を見せるのが正道だ。しかし多くの専門家は釈明や謝罪どころか、何事もなかったかのように次のイシューについてまた専門家としての意見を出したりする。さらに深刻な問題は、偏狭な理念にとらわれ、事実を公正に眺めず、自分があらかじめ出した結論に事実を合わせようとする専門家も少なくないという点だ。このような専門家は自分が間違っていたことが明らかになっても絶対に認めず、一般国民に有用な情報を提供して望ましい結論を出すのに寄与するどころか、むしろ社会を分裂させる。
これに比べるとひどくはないが、多くの専門家は自分の結論に合う事例や統計ばかり引用する傾向がある。正直、筆者自身もこれに関しては完全に自由でない。これは自分の論点を強調しようという意図があるが、こうした傾向が激しくなれば、一般の人たちがバランスのよい判断をするのを妨げる。最近、基礎研究費の集中化現象をめぐる議論があったが、ある論者は基礎研究の多様性が重要であり、日本では多くの研究者に基本研究費を支援するためノーベル科学賞が多数出てくると主張した。もちろん基礎研究で多様性と底辺を広げることの重要性は異論の余地がない。しかし日本政府は昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授に対しては数千億ウォンの研究費を集中的に投じた。このように底辺を広げるとともに、有能な学者を選択して集中支援するシステムもある。結局、2つの目標の適切な均衡が必要だが、一つの重要性だけを強調すれば、大きな枠を逃す過ちを犯す。政治家も専門家も、客観性と公共の信頼性を守りながら自分の言葉に責任を持つのはそれほどやさしいことではなさそうだ。