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【コラム】沈む帝国の二風景(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.03.29 16:18
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1972年、米国領グアムで原始人が発見された。 日本軍の敗残兵、横井庄一上等兵だった。 彼はジャングルにまかれたビラを見て日本の敗戦を知っていたが、投降を拒否した。 司令部からの訓令がないという理由だった。 羽田空港をぎっしり埋めた人波に彼はこう語った。 「恥ずかしながら帰って参りました」。大和魂の記憶が日本に衝撃を与えた。 2年後、フィリピンのルバング島で30年生き続けてきた小野田寛郎少尉が発見された。 下山を拒否する彼を屈服させたのは、過去の上官の投降命令書だった。

これが帝国日本の力だった。 人類学者ベネディクトは『菊と刀』で、日本人は共同体と国家から恩恵を受けたという意識を持って生まれると書いた。 このため報恩が個人よりも優先され、それに背く行為は日本人が最も嫌悪する恥となる。 「恥ずかしながら帰って参りました」という言葉はまさにそれを表している。 国の命令なく個人の生を優先できないというのも、報恩と恥の所産だ。 国魂で武装した帝国が「大東亜」に向かって突進する時、個人は猛烈に投身した。 神風のようにそれは狂気を帯びていた。 ところが平和時はどうか。

 
日本大地震の復旧過程で表れた二つの相反する風景に、韓国人は少なくとも二度驚いた。 想像を超越する大災難にあった日本人はどうしてこれほど落ち着けるのか。号泣しても足りない家族と知人の死の前でどうしてこれほど静かに泣けるのか。ところが秩序・配慮・忍耐に驚きを表した韓国人は、食糧・薬品・毛布・水・電気不足に苦しむ経済大国の被災者、のろい救済活動、原子炉に海水を注ぐ先端科学大国の水冷式対処方式にもう一度驚かざるを得なかった。

韓国なら災難地域で騒動が起きていただろう。 脆弱な防災システム、国の職務遺棄を主張しながら賠償を要求し、救護物資が十分でないと喚いていたはずだ。 それと同時に災難処理も迅速に行われただろう。 政府と地方自治体、市民団体がすぐに駆けつけ、道路を通し、通信を架設し、被災者をなんとか保護したはずだ。 泰安(テアン)半島を覆った油をすべての国民が短期間で片づけてしまったように。 また、延坪島砲撃当時に数百人の避難民をとにかくサウナに収容したようにだ。 油と戦ったボランティアメンバーが公式許可を受けたこともなかったし、サウナの主人が郡庁に事前申告をしたわけでもなかった。 性急な韓国人の性格通りにしたにすぎない。


【コラム】沈む帝国の二風景(2)

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