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【コラム】三一運動参加者が待ち焦がれていた「ゴドー」は何だったのか(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2024.03.01 11:05
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◇熱い熱気の後に交錯した動機

1919年1月に崩御した高宗(コジョン)に対する追悼の熱気も一役買った。だが、その熱気の理由はそれぞれ違った。朝鮮王政への回帰を夢見る人々もいた。反面、「皇室といえば寝ながらも歯ぎしりし(…)日本人どもが嫌いであることと何ら違うところがない」という人々も多く、彼らはむしろ王政に戻る心配がなかったため心安らかに哀悼した。東京留学生の二八独立宣言書もまた「たとえ多年の専制政治の害毒と境遇の不幸がわが民族の今日を招いたものであるにせよ、今日より正義と自由とにもとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設」すると宣言することによって朝鮮王政との決別を明確にしている。

 
当時韓国人は1919年1月に始まったパリ平和会議とここで宣言された米国大統領ウィルソンの「民族自決主義」に大きく鼓舞されていた。さらに黄海道(ファンヘド)のある村の農民も「世界平和会議が開かれて他国に占領された弱小国は一つ残らず独立している」と免状で話し、婦女子も「民族自決」を口にしていたことを当時の記録が伝えている。独立したらどんな国を作ることができるのかに対しては人々の考えが交錯していた。しかしそれに対する「公論の土台」を作ったということが三一運動の重要な点だ。

クォン教授の本を記者に推薦した社会学者ソン・ホグン翰林(ハンリム)大学碩座教授はこのように述べた。「人民水準で近代へ(近代的市民として)脱却して出てくるためにはさまざまな契機が必要だ。当時3つの契機があったと考えられるが、一つは(市民宗教の役割をした)天道教とキリスト教、それから人々がよく読んでいた新小説、そして独立と市民自治のための運動だ。その過程で日帝が市民自由を踏みにじるため(抵抗する過程で)その3つの契機が三一運動に集まっていった。市民として覚醒する運動、市民に転換する運動というほうが正確だろう」。ソン教授の『国民の誕生』(2020)を読むと、日帝が公論の場を除去した状態で宗教と新小説がどのようにそれを補完したのか登場する。

三一運動の中には女性運動も溶け込んでいる。チャン・ヨンウン成均館(ソンギュングァン)大学招聘教授によると、独立活動家の李娥珠(イ・アジュ)は貞信女子学校卒業予備生だった1919年3月5日、他の学生たちを率いて万歳デモに参加して逮捕されて起訴されるが、「お前のような人間が生意気にも何の政治に関係しようというのか。まだ朝鮮女性は政治に関係するほどにはなっていない。お前たちは家庭をしっかり切り盛りして子女でもちゃんと育てていろ」と言われて「何度考えても悔しい」ほどの怒りを感じたという。「三一運動は民族運動の次元を超えて女性たちが女性の生き方を根本から考えさせた革命的事件だった。(…)女性たちは互いに連帯し始める」とチャン教授は述べる。

このように三一運動は各自の「ゴドー」を待つ人々がその希望を爆発させて近代的市民として生まれ変わろうとしていた運動だった。今もそれぞれの「ゴドー」を待っている私たちに限りないインスピレーションを与える理由だ。

ムン・ソヨン/中央SUNDAY文化専門記者

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    太極旗の木版。三一運動の時、太極旗を大量に印刷するために製作された。印刷用なので太極と四卦が反対方向だ。[写真 韓国文化財庁]
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