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日本で粗末なバラック小屋に暮らしながらも故郷愛…452億ウォンを寄付した在日済州人

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2024.01.31 13:52
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◇在日済州人が主管する新年の挨拶会に関係機関長が出席

新しい年が始まり、済州道(チェジュド)の呉怜勲(オ・ヨンフン)知事をはじめ済州の主要機関長が日本に総出動した。101年前の日帝強占期に済州から日本に渡っていった在日済州人の献身と寄付のおかげで済州が発展したことに対して感謝の挨拶をするためだ。

 
30日、済州特別自治道によると、呉知事は27日と28日にそれぞれ東京精養軒と大阪帝国ホテルで在日本関東済州道民協会・関西済州特別自治道民協会が主管した新年の挨拶会に出席した。この行事には金京学(キム・ギョンハク)済州道議会議長と金光守(キム・グァンス)済州道教育長、キム・イルファン済州大学総長、姜秉杉(カン・ビョンサム)済州市長、李鍾佑(イ・ジョンウ)西帰浦(ソグィポ)市長、ヤン・ムンソク済州商工会議所会長らも参加した。

この日、大阪市生野区では「済州-大阪直航路線100周年」(昨年基準)を記念してトルハルバン像1組および銘板の寄贈・除幕式も開かれた。トルハルバン像は100年前に済州と大阪をつなぐ連絡船「君が代丸」の就航を記念するために済州道が製作して日本に持ち込んだ。

◇1923年済州-大阪航路開設

毎年済州の主要機関長は年初に日本を訪れる。済州の発展に寄与した在日済州人の功労と影響力が大きいためだ。1923年済州と大阪を定期的につなぐ済阪航路が開設されて済州人の日本への大移住が始まった。日帝強占期に釜山(プサン)に下関をつなぐ関釜連絡船があったとすれば、済州には大阪を行き来する済阪連絡船があった。在日同胞の故崔洋一(チェ・ヤンイル)監督の映画『血と骨』の最初のシーンは1923年船に乗った済州人が工場の煙突が所狭しと立ち並ぶ大阪を見て歓呼する姿だった。

当時大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれた。産業化で工場地帯が拡張されてかなりの人手不足だった。在日済州人は日本人が就職を敬遠するゴム・ガラス・金属・化学・紡織工場などで一日14時間以上働いた。

済阪航路開設以降、連絡船の利用客は爆発的に増えた。就航初年度(1923年) は8340人に過ぎなかった連絡船の利用人員は1924年1万9385人、1925年2万5552人、1926年2万9362人、1927年3万6087人、1928年3万1465人、1929年3万8078人と毎年増加した。その後、1945年光復(解放)当時、在日済州人は10万人以上にのぼったと推定される。当時済州道の人口約20万人の半分水準だ。

◇在日済州人2000年までに452億ウォン寄贈

2022年済州大学が公開した「在日済州人第一世代生活実態調査報告書」によると、在日済州人は1989年11万7687人でピークを迎えた後、2021年7万4279人に減った。これに対して済州大学側は在日済州人第三~四世代を経て日本に帰化する事例が多くなったためだと推定した。

在日済州人第一世代は川べりの捨てられた土地に粗末なバラック小屋を作って暮らしながらも故郷を忘れなかった。済州に残った家族のために月給(約20円)の半分以上を送った。あわせて故郷の発展のために1960年代から2000年までの間に9533件、452億6700万ウォン(約50億1040万円)を寄付した。この寄付金は学校をはじめ病院・地域会館・道路の建設などに使われた。

済州道は在日済州人の献身に報いるために▽各地域と連係した在日済州人の故郷訪問招待▽「在日済州人貢献者の夜」行事の開催▽在日済州人功徳碑貢献者の調査▽在日済州人第一世代生活実態調査--などを推進している。呉知事は「現在、韓日済州投資ファンド造成を推進している」とし「済州が発展する土台になるだろう」と話した。

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    日本で粗末なバラック小屋に暮らしながらも故郷愛…452億ウォンを寄付した在日済州人

    2024.01.31 13:52
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    昨年1月28日、東京精養軒で在日本関東済州道民協会が主管した新年会で呉怜勲(オ・ヨンフン)道知事をはじめとする済州(チェジュ)の主要機関長が記念写真を撮影している。[写真 済州道]
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