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【コラム】対日交渉、日本の誠意ある謝罪を繰り返し要求すべき(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2023.04.11 10:13
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人文学をする歴史学者として社会科学との融合を図りながら多様な理論に関心があるが、中でも国際政治理論の一つ「両面ゲーム理論(two level game theory)」は歴史的に国際政治と国内政治の関連性を分析するのに有用なフレームになるだけでなく現在の国際関係を理解するうえで大きく役立つ。

◆国際関係分析のフレーム「両面ゲーム理論」

 
両面ゲーム理論は、国際外交・交渉が単に政府間でなく当事国の国内政治を同時に理解する時に可能という理論だ。交渉の一面は国家間で行われるが、別の一面には事案をめぐる内部構成員との交渉がある。結局、両側面で共に成功する時、外交と交渉がうまく進行するということだ。

例えば国家間の交渉をしても国内構成員の利害関係が複雑に絡んでいればその交渉は成功しない。その構成員は市民社会のケースも、立法府のケースも、企業や社会団体のケースもある。これらの声がそれぞれ異なる方向で葛藤が生じれば、その交渉は決してうまくいかず、合意に成功してもまともに運営されない。慰安婦合意がその事例といえる。

これとは逆に国内で協議案をめぐる見解の違いが大きい場合、国家の交渉力が高まることもある。相手国との交渉過程で国内の反対意見を理由に相手の譲歩を要求できる。相手が譲歩しなければ交渉は失敗することもあるが、交渉成立が切実な状況なら有利に交渉テーブルを導くことができる重要な条件になったりもする。

◆1950年代に失敗した官製デモ

民主化以前の韓国大統領はこの点をよく知っていたようだ。官製デモがそうだ。国民を動員して世論を形成し、これを通じて交渉相手国の譲歩を引き出そうとした。政府樹立以降、対外交渉のための最初の官製デモは停戦協定反対デモだった。李承晩(イ・スンマン)大統領は自身だけでなく韓国国民が停戦協定に反対している点を見せようとした。

誰が見ても分かる動員されたデモだったため、韓米間の交渉に大きな力にはならず、米国は停戦協定を締結した。1950年代末の日本の在日同胞北送(帰還)時に発生した官製デモも1953年の経験と似ていた。李承晩政権は在日同胞の北送を防ぐために特攻隊まで派遣し、デモを組織した。しかし結局は北送を防げなかった。

◆1974年の文世光事件の衝撃波

対日関係で官製デモは1974年の陸英修(ユク・ヨンス、朴正熙大統領夫人)射殺事件の時にもあった。さまざまな疑惑が提起されたが、日本の警察は在日同胞・文世光 (ムン・セグァン)の犯行の背後に対する捜査に消極的であり、これに抗議する官製デモが広範囲で起きた。

1970年代前半は韓国が韓日関係で守勢の時期だった。1973年の金大中(キム・デジュン)拉致事件のためだ。東京の都心で発生した韓国野党指導者の拉致事件は外交的に大きな問題になり得る事件だった。また、韓日協定にもかかわらず、当時の在日同胞は韓国よりも北朝鮮に好意的な態度だった。

文世光事件による反日デモはある程度の効力を発揮した。官が動員する性格もあったが、文世光事件が1895年の明成皇后殺害事件と結びついて国民的な怒りを呼んだからだ。韓日関係は断交直前にまで悪化した。当時、米国は両国に積極的に介入し、結局、最悪の関係にまでは進まなかった。

◆米国との知的財産権協定にメディア動員

官製デモではないが、メディアを動員して交渉を有利に進めようという動きは全斗煥(チョン・ドゥファン)政権当時にあった。1980年代初め、米国は韓国に対して知的所有権(現知的財産権)協定を結ぼうとした。レーガン政権がサムスン電子・金星社・大宇電子などのブラウン管カラーテレビを対象に15%の反ダンピング関税を付与した時期(1984年)でもあった。

当時、韓国の新聞には知的所有権協定に対する懸念と批判が掲載された。1980年のメディア統廃合でメディアに対する統制があった時期だった。メディアを通じて知的所有権交渉を有利に導こうとしたようだ。しかしこうした記事は1986年半ば以降は消え、韓国は世界で初めて米国と知的所有権協定を締結する国になった。世論動員が効力を発揮できなかったのだ。

◆1964年6・3事態と韓日協定

国内の世論を通して国際交渉を有利に導いたケースもある。いくつか異見があるだろうが、6・3事態と呼ばれる1964年の韓日協定反対デモは、当時の状況を変える重要なきっかけになった可能性が高い。

韓日協定は米国が1950年代から推進した対韓政策の最も重要な目標の一つであり、軍事政変で執権した韓国政府にも経済的な成功のために協定の締結は切実な状況だった。韓日協定反対デモが起きると、米国は第2の4・19革命(四月革命)になると判断した。米国が承認して支援し、韓日協定を推進した朴正熙(パク・ジョンヒ)政権が崩壊するおそれもあった。在韓米軍司令官は韓国軍の移動を承認し、戒厳令が宣言された。ところが国内の反対の声は朴正熙政権に圧力となり、政府の交渉力を高めた。

1965年に日本の椎名悦三郎外相が訪問した当時、韓国政府が「民族的感情を考慮した発言をするよう推奨」することができた。当時、日本政府は「到着声明で発表することはできないが、記者会見で質問があればそのような趣旨で答える」という文書を送ってきた。実際には韓国に到着した直後に「両国間の長い歴史の中に不幸な時期があったことはまことに遺憾な次第であり、深く反省する」という内容を含む声明を発表した。

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