【中央時評】セウォル号続く梨泰院、また犠牲を浪費するのか(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.11.17 11:34
父母の骨は山に埋め、子の骨は胸に埋めるといった。治癒と忘却のない世間で最も悲痛な悲しみが大切な子に先立たれることだ。息子を亡くした悲しみをどうすることもできなかった詩人の金東里(キム・ドンリ)は「ジンが一つの雲になって去った日/空には聾唖者のような太陽だけが出ていた…」とし、作家の朴婉緖(パク・ワンソ)は「あなたは本当に存在するのか、存在するのなら私の息子はなぜ死ななければならなかったのか…何か言ってほしい」と絶対者に向かって絶叫した。
大韓民国がその重みと深みを測量さえできない残酷な悲しみと苦痛の沼に陥った。船尾だけが水上に突き出たセウォル号の悲惨な記憶が鮮明だが、今度はソウルの真ん中で158人の美しい若者たちが昇華した。言葉では言い表せない子どもたちの早世が残る人たちの胸を押さえつける。安全な社会を築けなかったという自責が悔恨として戻ってくる。このあきれるような死の原罪から自分も自由でないことを、私たちはみんな無言で知っているからだ。それで梨泰院(イテウォン)の路地を通るときはあの日の夜のように胸が締めつけられ、犠牲者の魂への菊一輪にも胸が裂けそうになる。