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【コラム】その時その時代、韓国にも外交があった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.12.15 16:03
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韓国の孔魯明(コン・ノミョン)元外相は「韓国外交の生き証人」という常套語だけでは説明できない人物だ。1958年に外務部に入り、アジア局長、次官補、ブラジル・ソ連・日本大使を経て外務部長官を歴任した経歴のためだけではない。韓日国交正常化交渉、中国民航機韓国着陸事件交渉、在ソ連大使館開設、南北核交渉、韓日歴史懸案への対応など、彼の手を経た仕事を集めれば言葉どおり「韓国外交史」といっても過言ではない。

最近発刊された『孔魯明と私』(図書出版ウォンイン)は潘基文(パン・ギムン)元国連事務総長らと共に仕事をした外交官の後輩や関連分野の知人52人の回顧談を編集した90歳記念文集だ。ともすると称賛一色になりすやすいその他の献呈文集と異なるのは、「残したい外交秘話」という副題にもあるように史料的価値があるエピソードや秘事など事実中心に記述されている点だ。単なる興味を越えて「外交の危機」といわれている今日の現実に対して、貴重な教訓を投じている部分も至るところに見える。

 
筆者が孔魯明に対して持っている印象は温和な性格と相手の話を傾聴する真摯な姿勢、幅と深さを兼ね備えた知識などだ。ところが彼は優しさだけでなく、交渉家や戦略家としての必須の徳性である断固さと剛気も持ち合わせていて、外交現場で発揮していた点をこの本を通じて改めて感じることになった。そのうちいくつかの部分を要約すると次のようになる。

◆盧泰愚(ノ・テウ)政府「北方外交」の下地

#1.盧泰愚政府で実を結んだ北方外交は、冷戦終息という世界史の流れにうまく乗り能動的に解決していった結果だった。実はそれ以前にも北方外交の種はまかれていた。中国と一切交流がなかった1983年5月に発生した中国民航機韓国着陸事件で、韓国外交は青天の霹靂のごとく中国との初めての政府間交渉に臨むことになった。いつか来る韓中関係の樹立を念頭に置いて第一歩をミスなく踏み出さなければならないという至難の任務が当時の外務次官補だった孔魯明に下された。

中国代表団は搭乗客はもちろんハイジャック犯まで引き渡すよう要求し、合意文にも公式の国家名称は使えないと食い下がった。

孔魯明は自分を曲げないで「人の家に土足で上がり込んで、その家の主にまともに挨拶もしないということか」と言って圧迫した。その結果、ハイジャック犯に対する裁判管轄権を守り、合意文に公式の国名と職名を明記して先例として残すという立場を貫徹した。

この事件の処理が終わった後、孔魯明は「平和統一を最終目標にするべきだが、その前段階は韓国・北朝鮮に対するクロス承認を実現させることで、それに先立って中ソとの接近を推進しなければならない」という政策建議書を作成した。イ・ボムソク外務長官はこれを土台に同年6月に共産圏との北方外交を推進すると宣言した。これが後日、盧泰愚政府が本格的に推進することになる北方外交の基礎になったというのがキム・ソクウ元統一部次官の回顧だ。

◆北朝鮮人権問題を初めての提起

#2.孔魯明は外交安保研究院長時代、、南北間の核交渉チャネルである南北核統制委員会首席代表を兼任した。北朝鮮代表チェ・ウジン外務省副部長はいつも準備された原稿を冗長に読み上げて会談を一方的な体制宣伝に場にした。ある日、韓国戦争(朝鮮戦争)が米帝国主義と南朝鮮傀儡の北朝鮮侵略から始まったという部分が出てくると、孔魯明が突然、チェ副部長に金日成(キム・イルソン)とスターリンが謀議して起こした証拠だとして1枚の写真を手渡した。チェ副部長は正視することもなくビリビリと破り始めた。孔魯明が「おや、首領様の顔をそんなふうにめちゃくちゃに破ってもいいのですか」と咎めると、チェ・ウジンの顔は真っ青になった。孔魯明はまた、ポケットから漢方薬の牛黄清心丸を取り出して「南側で作ったものだが頭に来たときの特効薬だ」と言って渡したりもした。孔魯明はいつも判で押したような発言だけを繰り返す北側代表に「平壌(ピョンヤン)だけを見るのではなく、私の顔を見て話しなさい」と迫ったこともある。

孔魯明が外相になった後の1995年には、国連総会一般討論演説を通じて初めて北朝鮮人権問題を提起した。「北朝鮮人権状況に対して韓国政府の深い懸念を表明する。北朝鮮住民が同じ同胞として誰もが享受する権利がある普遍的人権を享有しなければならない」。2003年北朝鮮人権問題が国連の議題として上程されて国際社会で公論化される8年も前のことだった。呉俊(オ・ジュン)元国連大使によると、政府内でも賛否両論があったが「民主化を重視してきた金泳三(キム・ヨンサム)政府の立場から、この問題に沈黙できない」という結論を下して国連演説につながったという。いま韓国は北朝鮮人権決議案の表決で数年間棄権している状態だ。

当時でさえ北核問題の当事者は韓国だった。孔魯明とともに交渉に臨んだ尹徳敏(ユン・ドクミン)元国立外交院長の説明は傾聴するに値する。

「核交渉は米朝ではなく南北がしていた。最近、韓国政府が北核交渉から排除されたまま仲裁者云々している状況を見ると隔世の感がある。(中略)金泳三政府は1993年北朝鮮の核拡散防止条約(NPT)脱退という暴挙の前にあまりにもあっさりと北核交渉当事者から引き下がり、米朝交渉を容認した。盧泰愚政府がかろうじて構築した「韓半島当事者解決原則」を気が抜けるほどあっさりと放棄した。これは韓半島の政治・軍事問題は韓国が主導するという原則だった。その後、韓国は北核交渉の当事者から第三者の地位へと転落した。韓国人は北核問題を自分たちの問題ではないから米朝間の問題として認識する契機になったといえる」。

【コラム】その時その時代、韓国にも外交があった(2)

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    韓国の孔魯明(コン・ノミョン)当時外務部次官補(左)が1983年5月、中国民航機韓国着陸事件を解決し、中国側交渉団の沈図代表と合意文書を交換している。[写真 孔魯明]
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