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【コラム】憎悪は私の力=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.10.28 12:01
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それ以上に強力なのが李在明候補に対する李洛淵(イ・ナギョン)支持者の憎悪。彼らにとって李在明は自身の兄を強制的に精神病院に送り兄嫁を罵倒する「サイコパス」だ。兄嫁に罵倒する音声データ、市議会で指を突きつけて撤去民に暴言を吐く映像など彼の人と違う性格を強調する資料はほとんど彼らが流布したものだ。

人間は合理的動物ではなく合理化する動物だ。特別な情報がない時に人はひとまず事案を好悪の感情で判断する。この最初のイメージはとても強烈で、その後に従う理性的判断を下に従属させてしまう。その時理性はせいぜい感情が下した最初の判断を事後的に正当化する役割しかできなくなる。

 
政治家らも憎悪の政治に出た。有権者を理性で説得するのはわずらわしい。最小の費用で最高の効果を上げる技法をなぜ拒むのだろうか。李在明候補は「尹斗煥(ユン・ドゥファン)」像を作ろうと全斗煥(チョン・ドゥファン)の碑石を踏んだ。元熙竜(ウォン・ヒリョン)候補は李在明を「ソシオパス」と呼び、チョ・グク元長官は尹錫悦を「司試オパス」と呼んだ。

憎悪が特定人口集団を狙えば嫌悪となる。政治家らは憎悪だけでなく嫌悪まで利用する。李在明候補は医師集団、特定宗教集団に対する憎悪を活用して支持率を引き上げてきた。「国民の力」の候補らの場合には女性嫌悪と労組嫌悪が最初から共通公約になったようなものだ。支持率が憎悪と嫌悪から出ているという話だ。

なぜこのようになったのだろうか? その土台で私はこの社会のある否定的状態を見る。どうせビジョンも希望もない世の中。その解決策まで見られない時、人々はその不幸の原因として特定の個人や集団を名指しして嫌うことでストレスを発散しようとする。憎悪と嫌悪がこの苛酷な現実に耐える唯一の力になったのだ。

少し前に「皿洗い論」というものでSNSが騒がしかった。その土台からも簡単に女性嫌悪を読み取ることができる。上の階層に上がるはしごが断たれた社会。熾烈なイカゲームに敗れた彼らが、自身が経験した社会的挫折を自嘲に近い女性嫌悪で解消しているのだ。挫折とあきらめさえもいまでは嫌悪なしではできなくなったようだ。

憎悪は私たちの力だ。私たちは憎悪で耐えている。憎悪するだれかが必要な時、やりやすいのが政治家、それも相手党の候補だ。今後大統領選挙までの5カ月にわたり憎悪の極限を経験することになるだろう。ぞっとする。

陳重権(チン・ジュングォン)/元東洋大学教授

【コラム】憎悪は私の力=韓国(1)

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