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アジア人殴る黒人映像の恐怖…白人の「ガスライティング」だった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.07.01 16:32
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米国内の「アジア人ヘイトクライム(嫌悪犯罪)」が急増し、アジア人は恐怖で震えている。「これほど深刻な身の危険は類例がない」と韓国人は口をそろえる。米州韓国人有権者協会のキム・ドンソク代表は「ニューヨークのような大都市に住むアジア人は公共交通機関を利用するなど日常的なことにも恐怖や緊張感を感じる状況」と述べた。

 
人権団体「Stop AAPI Hate(アジア・太平洋系に対する憎悪を止めよう)」によると、昨年3月19日からことし2月まで、米国で3975件のヘイト事例が報告された。ことし3月だけで、実に2808件が新たに報告された。ニューヨークの場合、2019年には3件だけ発生したアジア人ヘイトクライムは、昨年28件で9倍以上に増えた。

SNSに出回るアジア人暴行場面を見ると、映像の中の加害者は大抵、黒人またはヒスパニック系だ。このため、国内ではアジア人ヘイトクライムを主導する勢力は黒人とヒスパニック系という人種差別的主張が飛び交っている。果たしてそうだろうか。

◆メディアが増長させた黒人・アジア人の摩擦

1980年代以降、米国では黒人の集団抵抗運動が起こるたびに、黒人・アジア人の摩擦の枠組みが当てはめられてきた。1992年のLA暴動時がそうだったし、最近の「BLM(Black Lives Matter・黒の命も重要だ)」運動の時もそうだった。キム・ドンソク代表は「白人優越主義を掲げるトランプ政権下でアジア人ヘイトが見られ始め、白人の攻撃が有色人種に集中している」とし「しかし、白人が主導する主流メディアは、むしろ人種差別に抵抗する黒人がアジア人を攻撃していると報じている。有色人種は、その偏向性を非常に注意深く注視している」と説明した。

統計的に見ても黒人・アジア人摩擦は増加している。ことし1月に米国刑事司法ジャーナル(American Journal of Criminal Justice)に掲載された『アジア系米国人対象のヘイトクライム(Hate Crimes against Asian Americans)』によると、1994~2014年に発生した329件のアジア人対象のヘイトクライムのうち、74.5%が白人が加害者だった。

人種摩擦の領域で黒人とアジア人が反目し合うように見える現象は、根深い白人優越主義の伝統とアジア人への嫌悪感情に由来すると言われることが多い。少数民族(Ethnic Minority)同士、大きな摩擦があるかのように、白人主流社会が一種の「ガスライティング」をしてきたのだ。

◆アジア人嫌悪の種、「中国人嫌悪」

アジア人嫌悪の歴史は1800年代半ばまでさかのぼる。清の末期、中国人はアヘン戦争(1839年)、太平天国の乱(1850~1864年)を経て「アジアの患者」に転落した清を捨て、太平洋を渡った。

当時、米国は西部開拓が盛んだった。中国人は大変が鉄道・橋梁などの土木事業や金鉱採掘に投入された。起業家は白人労働者に比べて賃金が3分の1の中国人を歓迎した。しかし、仕事を徐々に奪われた白人労働者は怒った。

「仕事を奪う異民族」に対する怒りは暴力として現れた。1871年には白人・ヒスパニック系で構成された暴徒500人余りがLAのチャイナタウンを襲撃し、中国人19人を殺害した。カリフォルニア裁判所は暴徒の大半を証拠不十分で釈放した。中国人の受難はこれで終わらなかった。1876年に米国に天然痘が広がると、白人社会では「中国人が病気を移した」といううわさが広がった。

米国社会は中国人を「黄禍(Yellow Peril)」と呼んだ。この命名は、未知のアジア人に対する米国の根源的恐怖を露呈する。1882年、米国社会はこれらの人種差別偏見を制度化した。「中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)」を制定し、移民自体を遮断した。当時、米国が移民を遮断していたのは、通常、犯罪者・障害者・売春者・疾病保有者等だった。

中国人排斥はアジア人全体に対する排斥に移っていった。1917年からは日本・フィリピンを除くすべてのアジア人移民を遮断し、この措置は、1943年まで続いた。1880年当時、米国の人口5015万人中、白人は85.9%で、アジア人は0.2%に過ぎなかった。 

そんな中でも米国社会が好意的だった日本人も差別待遇を受けたのは同じだった。1920年代から米国軍の情報機関は日本人を監視した。1942年の第2次世界大戦中、米国は大統領行政命令で敵国のドイツ系・イタリア系・日系米国人を強制的に収容したが、その中で日系人を最も厳格に扱った。強制収容されたドイツ系は約1万人、イタリア系は3000人なのに対し、日系米国人は12万2000人だった。後日、レーガン米大統領が1988年にこのことについて謝罪し、合計16億ドルにのぼる補償を約束した。今も日系米国人は強制収容を開始した2月19日を「記憶の日」とし、記念日としている。

◆米国を「人種のサラダボウル」に変えた決定的瞬間

アジア人に閉ざされていたアングロ・サクソン系白人の国・米国は、1960年代、自国の人口構成を覆す重要な決定を下した。当時、米国では東欧系、南欧系も追放すべきだという純血主義の主張が主流だった。1961年、民主党のコネチカット州下院議員だったロバート・ジアイモ氏は、イタリア移民委員会の演説で「米国を発展させた主役はアングロ・サクソン系白人であり、したがって、南部欧州人を追放しなければならないと主張する人がいる」と憂慮した。

このような状況で移民を積極的に受け入れるべきだと主張して出てきたのがジョン・F・ケネディ氏だった。ケネディ氏は1958年に著書『A Nation of Immigrants(移民の国)』 で「米国の建国理念である開拓精神は境界を崩し、前進する精神だ。移民を受け入れることが建国理念と相通じる」と主張し、「移民を開放し、米国を『人種のるつぼ』にしなければならない」と記した。当時、米国の移民システムは、すでに米国に定住している国の出身者にだけ少数のクォーターを配分する方式で、アジア・南米など第3世界の国民の移民は極めて困難だった。

ケネディ大統領が暗殺されたことで、彼の意志を継がなければならないという世論が急激に形成された。後任のリンドン・ジョンソン大統領が1965年に移民法を改正し、米国は多民族国家での基礎を築いた。移民に国境を開放する際も、米国人は、アジア・中南米移民が急増することはないだろうと見通した。当時、ジョンソン大統領は移民法改正案に署名しながら、「我々の社会構造に影響を与えることはないだろう」と述べた。

しかし、新たな移民法は、米国の社会構造を「多人種国家」に完全に様変わりさせた。1960年には、米国の人口は1億7932万人、人種別分布は白人85.4%、黒人10.5%、ヒスパニック系3.2%、アジア人0.5%だった。そんな米国が2017年には人口3億2100万人で白人61.5%、黒人12.7%、ヒスパニック系17.6%、アジア人5.4%と、明らかな「人種のサラダボール」に変身した。

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    2021.07.01 16:32
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    ケネディ大統領が上院議員時代に主張していた移民法改正は、彼の死後、ジョンソン大統領時代の1965年に実現した。これにより米国は国境を大きく開放し、その後米国は、多様な人種が共存する「サラダボウル」に変貌した。[中央フォト]
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