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【中央時評】奇異な政治ショーと左右分別=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.01.12 11:25
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2016年10月、朴槿恵(パク・クネ)-崔順実(チェ・スンシル)ゲートで触発した大規模なろうそく集会が始まった。翌年3月には憲政史上初めて大統領が罷免、逮捕され、5月に文在寅(ムン・ジェイン)政権が発足した。人々は一連の過程を「常識の回復」と言った。2019年8月にチョ・グク(法務長官)事態が発生し、政略的な検察改革をはじめとする相次ぐ失政で文在寅政権に対する世論が悪化した。2020年12月にチョ・グク元長官夫人の情景芯(チョン・ギョンシム)教授が有罪判決を受け、尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏が業務に復帰した。人々はまた「常識の回復」を話した。

常識とは「一般的な人が持っている、または持つべき知識や判断力」をいう。常識は一つではない。ある人に常識であることが他の人には常識でないこともある。ある社会で常識であることが、別の社会ではまだ常識ではなく特別なことかもしれない。社会がより良くなるというのは、常識でなかったことが常識になっていくことでもある。

 
韓国社会がその外形や教育水準などに比べて特に欠けている常識が一つある。「左右分別」だ。韓国は自由民主主義社会、すなわち資本主義を基盤とする民主主義社会だ。こうした社会で政治は資本主義を受け入れる傾向の右派と克服しようとする傾向の左派に分かれる。右派と左派にはさまざまな形があり、また変化するが、大きく見ればこうだ。よく鳥の両翼に例えられる。右派政治と左派政治がうまく作動する時、社会は健康に進むということだ。右派一辺倒あるいは左派一辺倒の社会は物質代謝がふさがり、結局は腐ってしまう。

韓国政治は右派一辺倒の状態にある。ところが奇妙にも激烈な「左右対立」状態にある。右派である右派と左派の振る舞いをする右派の対立だ。後者が青年時期に一時的に粗雑ながらも左派だったことは事実でも、民主化以降、主流社会に進入してからは常に右派だった。彼らは資本主義を受け入れるだけでなく信奉する。彼らは従来の右派を上回る既得権勢力になっても、依然として左派の振る舞いをする。興味深いのは従来の右派がそのような左派の振る舞いを暴露したり批判したりするどころか、熱心に助けるという事実だ。

両右派の激烈な左右対立。この奇異な政治ショーが韓国政治の本質だ。両勢力はこの政治ショーにほとんどの社会の成員を捕縛し、既得権と資産を吸い取る。政治ショーは「敵対的共生体制」で維持される。両勢力は既得権と資産をめぐり敵対的競争をする。しかし既得権と資産の生産者である多数の人民に対しては徹底的に連帯する。両勢力は敵のように対立しながらも、労働関連立法や政策では例外なく完全な一致を実現させる。

この政治ショーの下で「常識の回復」「左右でなく常識と非常識」のような叫びは虚しいものとなる。常識の回復を叫んだ人々が常識の破壊者として再登場する悪循環が避けられない。「中道」の努力も淡いものとなる。左右対立の弊害を止揚する現実的な路線は偽の左右対立状態では成立しない。常識の回復を越えて新しい常識、左右分別の常識が必要だ。左右分別がすべての問題を解決するわけのではない。しかし左右分別もなければ多数にいかなる希望もない。左右分別は政治の出発点だ。

過去20年余り、韓国政治は2つの右派政治勢力のうち片方に対する失望が他方に対する期待に転換する形で反復してきた。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権に対する失望は李明博(イ・ミョンバク)政権に対する期待に、朴槿恵(パク・クネ)政権に対する失望は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の再評価と文在寅政権に対する期待につながる形だ。その因果関係が合理的だったわけではない。期待はほとんどの場合、現在の失望が過去の失望を削除してロマン化したものにすぎなかった。3年余りの時差を置いて、両勢力ともに常識以下の集団であることを自ら証明しただけに、今はもうこうした反復も難しくなったということだ。

20年余り経てば、もう観点を変えて考える時になった。多くの右派市民は現政権を左派、社会主義者と呼ぶ。反対して批判する意図からだが、その勢力の左派の振る舞いと政治ショーに弄ばれている。過去の極右ファシズムを継ぐ右派勢力を唯一の悪の根源とし、自ら剥製になってしまった現政権の情熱支持者はその鏡像だ。双方の非常識を嘆く人たちもましなわけではない。左派の振る舞いをする右派政治勢力に何度も左派的な期待をかけては失望と背信を吐露することを20年余り繰り返す人たちのことだ。最も理性的だと自負する彼らも政治ショーに弄ばれている。

主人になろうとすれば主人として行動しなければならない。封建制や軍事ファシズムの下の臣民でなく民主主義政治の主権者なら、この奇異な政治ショーを拒否すべきだろう。被害者の態度もやめなければいけない。政治に対する失望と背信ばかりを吐露するのではなく、当初から自分の期待が誤謬だったことを省察する必要がある。政治の主人として自分はどんな社会を展望するのか、その道程で自分の生活はどうなのかを考えなければいけない。左右分別の常識を持つ市民により政治が始まる。右派市民と左派市民はそうしてこそ嫌悪と嘲弄をやめ、お互いの違いを尊重し、社会的な討論をしていくことができる。

キム・ギュハン作家

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