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<金正男毒殺>かつて金正日総書記の皇太子と見られたが…北の改革・開放を主張

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.02.15 11:11
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中央日報は2010年6月4日に韓国メディアでは初めて、金正日(キム・ジョンイル)総書記の長男であり金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長の異母兄である金正男(キム・ジョンナム)氏に単独インタビューをした。

中央日報は2カ月余りの追跡の末、マカオの新都心コタイにある38階建てアルティラホテルの10階で金正男氏に会った。当時、金正男氏はビデオカメラを持った取材チームを見ても避けたり驚いたりはしなかった。むしろ標準の韓国語で「記者ですか」と先に声をかけるほどだった。金正男氏は「写真を数枚撮りたい」という要求にも応じ、対話もした。

 
金正男氏は「弟(金正恩)が金玉(キム・オク)氏の息子という話が出ているのをマカオで聞いた」と記者が尋ねると、硬い表情になって「何の話か全く分からない」と返答を避けた。金正恩委員長は金正日総書記の4人目の夫人コ・ヨンヒ氏(2004年死亡)の息子と知られている。記者が話した金玉氏は金正日総書記の5人目の夫人。記者が息子キム・ハンソル君に関する質問をすると「家族のプライバシーは守ってほしい」と語った。ただ、記者が「お父さん(金正日)の健康はどうか」と尋ねると「よい」と答えた。

金正男氏は当時、自分の亡命説について明確な返答をしなかった。「欧州の方に行くという話を聞いたことがあるが」という質問には「欧州の方に行くことに何の意味があるのか。私がなぜ欧州に行くのか」と答えた。亡命説について繰り返し尋ねると、「まったく。欧州の方に行く計画はない。どういう意味があるのか分からない。なぜ私が欧州に行くのか。旅行で行くならまだしも…」と語った。

金正男氏はかつて金正日総書記の後継者と見なされて「皇太子」の地位を享受した。1971年5月10日に平壌(ピョンヤン)で金正日総書記と舞踊家だった成ヘ琳(ソン・ヘリム)氏(2002年に露モスクワで死亡)の間に生まれた。80年代にスイスに留学し、ジュネーブ大で政治外交学を専攻したとみられる。金正男氏は情報技術(IT)に関心を多いと知られている。98年から北朝鮮のIT政策を主導する朝鮮コンピューター委員会の委員長も務めた。また英語とフランス語を話し、国際社会情報に詳しい改革・開放主義者ともいわれた。

95年には人民軍大将階級を受けたという噂が広まるなど、一時は最高権力者である金正日総書記の後継者として関心を集めた。しかし96年に叔母の成恵琅(ソン・ヘラン)氏が米国に亡命した後、位置づけが不安定になった。また、北朝鮮に中国式改革・開放を導入するべきだという見解を公然と明らかにしたり、2001年4月にドミニカ共和国の偽造旅券で日本に密入国しようとして摘発され中国に追放されたこともあり、金正日総書記に背を向けられたという。そして2008年夏に金正日総書記が脳卒中で倒れた後、金正恩委員長に権力に渡ると、マカオなどに滞在しながら貿易業をした。

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