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【社説】セウォル号から1年…いまだに何も変わっていなかった(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.04.16 12:25
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韓国社会の「共感能力」は低かった。アダム・スミスは『道徳感情論』で社会を支える柱としての定義(justice)を「共感(sympathy)」といった。共感は他人に対する憐憫を感じる程度ではなく、相手の立場になってその感情を自分のことのように感じられる能力をいう。個人の生活でも公的活動でも、いくら理性的判断をしなければならない時でも共感を土台にした道徳的判断が発揮されてこそ社会が正常に回っていけるということだ。犠牲者と家族の悲しみに共感し、共に傷を癒そうと努力するのが真の市民精神だ。この1年の混乱と対立には市民の責任も看過できないほど大きかった。

これから1年後、韓国社会はより良くなるだろうか。今の状態では難しい望みだ。執権勢力はすでに「セウォル号忘却」のドロ沼に陥っている。朴槿恵大統領は今日、南米歴訪に向かい、崔ギョン煥(チェ・ギョンファン)経済副首相はすでに米国に発った。ほかの関係部署長官たちも海外出張や国会日程などで、ほとんどが追悼行事に参加しないことにした。セウォル号事故を機にスタートした国民安全処は今日「第1回国民安全の日 国民安全確約大会」という行事を行う。警察は遺族と市民が開く追悼集会に「車のバリケードを設置する」とあらかじめ脅しをかけた。政府が「セウォル号はもうそろそろ忘れなさい」というメッセージを繰り返し発信しているのは誤ったことだ。

 
とうてい忘れられないことを忘れろと強要してはいけない。セウォル号惨事は悲しみに共感し、十分に哀悼し、共に癒し、より良い社会をつくるための未来志向的な努力で克服して昇華しなければならないことだ。政府と政界、韓国社会は「セウォル号」に対して本当に間違っていた。このような過ちを反省して正しい道に進むように催促できる勢力は市民だ。

私たちはセウォル号の悲劇を通じて、国家が私たちの全てのものに責任を負える全知全能な存在ではないことを骨身にしみるほど分かった。ゆえに貪欲の節制という教養を備え、共同体の問題解決に日常的に参加する責任ある市民を育てる努力が切実だ。それでこそ市民のいない民主主義の弱点に食い込んだ不条理と積弊を、根本的に洗い落とすことができる。70年前の光復(解放)と共に米国によって与えられた民主主義を完成するためには、市民の存在が切実だ。「無料の民主主義」ではセウォル号の悲劇を止めることはできない。それこそが、1年前の惨劇が私たちの共同体に投げかける厳重な命令だ。


【社説】セウォル号から1年…いまだに何も変わっていなかった(1)

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