【コラム】いまだに「民族」時代?=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.12.16 10:58
列車が丹東駅に止まった。これ以上行くことはできなかった。川の向こう側のかなたに新義州(シンウィジュ)の市街地が見えた。曇っていた。鴨緑江(アムノッカン)は依然として流れていた。作家であり動物学者だった李彌勒(イ・ミルグ)があの川を渡ってドイツ留学の道に進んだ後、再び渡ることができなかった川だった。彼が死んでから数年後に生まれた筆者もその川を渡れなかった。いや、「民族中興の歴史的使命を帯びてこの地に生まれた」筆者は、その「民族主義」の名のもとでは永遠に川を渡ることができないという気がした。2つの異質の民族主義が互角に張りあっているということだ。
分断70年、韓国と北朝鮮は一種のウルトラナショナリズム角逐戦を行った。戦争も辞さなかったが、その敵対感と怨恨のゴールはどれほど深くなったのだろうか。北朝鮮は「民族」の名のもとに南派工作を行い延坪島(ヨンピョンド)砲撃・ミサイル発射・原爆実験まで敢行した。韓国は「民族」の名のもとに国富と国力を築き上げた。70年間の「民族」の経験層は互いを敵対視する有用な武器として固まった。民族概念を捨てよというのではない。ただし異質で敵対的な「民族概念」を包容する一次元高い認識を発明してこそ統一の門が開かれる。120年前に「民族」を発明したようにということだ。それが「世界市民」だ。「民族」時代から「世界市民」へと期待の地平線を広げてこそ、あの川を渡れる。