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【コラム】法王を待ちながら=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.08.05 13:46
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人間の内面に宿った天に仕えて養育しろという、そのメッセージをかろうじて実践する人々がいた。セウォル号惨事の犠牲になった故イ・スンヨン、キム・ウンギ君の父親だ。ウンギ君の父親は食堂で働いていた。食べ物を作りながら息子を海に沈めた者たちを殺したいと思っていた。鈍くなった刃物をよく研いでいた。殺す方法を深く考えながら辛抱した。そのうちに十字架を背負って行くことにした。ウンギ君が亡くなったその海まで。先月28日、2000里を歩いて彭木(ペンモク)港に到着した。天主の前向きな回答を聞いた。「神様が責任を負って下さって感謝いたします」。観相的な愛、良民・賤民の主の悟りが染みこんだ十字架は、再び千里を歩んで大田(テジョン)ワールドカップ競技場に行く予定の法王に奉献される予定だ。

それはセウォル号の犠牲者や遺族、胸にクギが打ち込まれた国民の大船請願書だ。ファン・サヨンの白書のように「船数千隻と5万、6万の精兵を送っていただいて…。この地域の聖霊を救ってください」というような依存的な絶叫ではなく、悲しい表情の背後に政治的打算がちらつく国家運営集団の偽善に対する犠牲的な告発だ。日程が予定されていた再・補欠選挙だとしても国家革新と責任政治を堂々と想起させるほど意味のあるスタートでもしたのかと問い直したいのだ。遺族たちの青瓦台(チョンワデ、大統領府)訪問、テントでの座り込み、市民活動家のハンガーストライキ闘争にもささいな条項争いや名分復活に執着する政界の形態に耐えられずに放った行動だった。

 
私たち皆が天道教徒ではなくても、暮らしには命に対する誠・敬・信の3字だけだと信じていた東学農民の末裔であることを否定しない。私たち皆が天主教徒でなくても、胸の内に降りてくる神を無視できない。上帝と天主が下ろした生命尊厳と人間愛の訓令は、経済成長と社会統合のような現実的価値に先行することで私利に脆弱な魂と身体に公益的な緊張を点火する「開眼」なのだ。政治とはいったい何なのか。市民が根本を忘れる時に忘却を癒すわき水ではないのか。市民が根本から回航するこの時、韓国の政治はかえって日常に戻ろうという。戻らなければならない。ところで帰り道を作ったのか。はばかりながらも、もう1つの生命尊厳の請願書が、訪韓する法王を待っている。

ソン・ホグン ソウル大学教授・社会学


【コラム】法王を待ちながら=韓国(1)

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