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【コラム】統一、ドイツ問題と韓国問題(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.04.10 12:58
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四半世紀前、西ドイツのコール首相による東ドイツ・ドレスデンでの演説は2つの「ドイツ問題」に答える場だった。1989年のベルリンの壁崩壊から40日目だった。ひとつは統一の内部問題だ。コール首相は東ドイツの聴衆に節制されたメッセージを投げかけた。民族主義をたきつけずに西ドイツ編入の希望を植え付けた。当時は鉄のカーテンが崩れただけだった。ドイツ連邦統一国家でも国家連合でもない、その前段階の協力が東西ドイツ間で摸索された。コール首相は統一という単語を1回使いながら、「歴史の瞬間が許すならば」という修飾語を付けた。その代わり平和・自由とともに自決を強調した。自決は統一が結局東ドイツ住民の手にかかっているという話だ。ドイツ統一の内部問題は翌年の自由選挙で完成される。

もうひとつは統一の対外問題だ。コール首相は演説で欧州の統一ドイツへの恐怖を払拭させようとした。強力なドイツは欧州には悪夢だった。第1次・第2次世界大戦がそうだった。欧州中央部のドイツ連邦が分裂しても統合しても平和は壊れた。分裂すれば戦争の交差点になり、統合すれば覇権の道を歩いた。コール首相は「ドイツという家は欧州というひとつの屋根の下に建てられなければならない」と述べた。欧州統合の枠組みの中に縛られた統一ドイツの未来像だ。ドイツは欧州連合(EU)の機関車になった。

 
ドイツ統一は2つのドイツ問題解決過程だ。歓喜の瞬間は西ドイツの一貫した内政・外政の産物だ。進歩と保守政権間の内独政策の差は大きかったが、人道的支援・交流協力の原則はバトンタッチされた。その焦点は東ドイツ住民だった。89~90年の転換時期にコール首相の統一外交はヒトラー第3帝国の原罪である分断体制を戻す旅程だった。ベルリンの壁は東ドイツ住民が押し倒したが、障壁を恒久に取り除いたのはコール政権だった。周辺国の安保懸念解消は難題中の難題だった。フランスはドイツと遺伝的な敵対関係だった。英国は400年にわたり欧州大陸の勢力均衡を対外政策の「法」としてきた。ソ連はドイツの報復主義にぐらついた。コール首相はひとつの欧州の中で統一ドイツビジョン、北大西洋条約機構残留と東ドイツ地域に対する条約の暫定的適用制限、37万人体制の軍事小国化で「第4帝国」への懸念をぬぐっていった。統一外交はベルリンの壁崩壊ぐらいに劇的だ。

地球儀を韓半島に回してみよう。冷戦は熱戦に変わった。分断の壁は高く断絶の谷は深い。南北間は2000年以来の制限的交流・協力も途切れたも同然だ。異質性が同質性を押さえ付ける。ドイツでは統一前の東ドイツ住民の3分の2が西ドイツと接触した。北朝鮮は東ドイツではない。人権は言うまでもない。いまやっと市場がうごめき始めた。北朝鮮の核兵器と弾道ミサイルは国際社会介入のブラックホールだ。南北関係もこじれている。金正恩(キム・ジョンウン)体制は安定的なのかどうか見極めが難しい。韓半島内部問題は断を超えて無秩序のかたまりだ。


【コラム】統一、ドイツ問題と韓国問題(2)

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