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安重根、ハルビンでなく旅順で裁判…日本が司法体系歪曲

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.01.21 11:35
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中国ハルビン駅の「安重根義士記念館」開設をきっかけに、安重根(アン・ジュングン)義士の義挙が再照明を受けている。しかし安義士の裁判自体が世界刑法史にも類例がないほど司法体系の歪曲と外交圧力の産物だったという事実は浮き彫りにされていない。

1909年10月26日、ハルビン駅で伊藤博文を狙撃し、3発を命中させた安義士は、その場でロシア警察に逮捕された。しかし安義士の身柄は日本に引き渡され、列車で12時間以上もかかる中国の旅順まで行って裁判を受けた。

 
なぜか。ハルビンはロシアが清から租借形式で奪った土地だった。したがって公式的な裁判権はロシアにあった。安義士に対する予備尋問もロシア憲兵所で行われた。しかし日本は「乙巳条約に基づき日本国は韓国人を保護する義務があるため、日本国刑法を適用しなければならない」と主張し、ロシアから安義士の身柄引き渡しを受けた。そして日帝の関東都督府傘下の旅順地方法院で起訴した。ロシアが捜査を進めていたが、外国人容疑者の身柄を日本管轄地に移すという前例のないことが行われたのだ。日本は「ロシアから合法的に引き渡しを受けた」と説明したが、日露戦争で敗れたロシアとしては日本の要求を受け入れるしかなかった。

日本がこうした手続きを踏んだのは、安義士が国際法に基づいて裁判を受けるのを防ぐための措置だったと解釈される。安義士の裁判に関する本を著述したユ・ジェウォン弁護士は「当時メディアではロシアの裁判所で国際法(万国公法)が適用されれば、祖国独立のための義挙という点が考慮され、3年以下の刑も可能と見なした」とし「軍人が戦争中に非正規戦をし、敵国の首脳を殺害したものであるため、国益のための正当行為と評価する可能性があった」と述べた。

これに先立ち親日外交官の米国人スティーブンスを処断した張仁煥(チャン・インファン)・田明雲(チョン・ミョンウン)先生のように「公正な裁判」を受けるのを防ごうという日本の意図も見える。国家報勲処によると、2人の愛国志士は1908年3月23日、日本の支配が韓国に有益だと主張をするスティーブンスをサンフランシスコのフェリー埠頭で銃撃し、死亡させた。張先生は現地の警察に捕まった後、裁判で「愛国的幻想」を理由に2級殺人罪が適用されて死刑を免れ、25年禁錮刑を言い渡されたが、11年後に仮釈放で出獄した。田先生は証拠不十分で釈放された。日本はこうした事態が再現されたり、安義士が国際的な注目を受けることを望まなかった。

安義士は法廷で自らを「大韓義勇軍司令軍参謀中将」とし「個人の資格ではなく参謀中将として(伊藤を)射殺した」と述べた。政治犯であることを明確にしたのだ。しかし日帝は戦争交戦に関する条約適用、捕虜待遇など安義士の要求を黙殺し、「朝鮮で砲手として活動した安重根が、伊藤博文に漠然とした敵がい心を抱いて怒りを抑制できなかった」とし、一般殺人犯として起訴した。

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