【コラム】ロシアの水没将兵追慕碑の警告=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.11.14 11:42
ロシアのプーチン大統領は1日しかない短い韓国訪問日程の中で昨夜出国前に仁川(インチョン)沿岸埠頭のロシア海軍水没将兵追慕碑を訪れ献花した。2009年にサンクトペテルブルクから持ってきた黒い花こう岩で作られた追慕碑は1904年の日露戦争最初の戦闘状況を後世に伝える「記憶の碑」のようなものだ。その時どのようなことが起きたのだろうか。その追慕碑は私たちにどのような教訓、どのような警告を与えるのだろうか。
1895年から1905年までの10年間、朝鮮は中国(清)、ロシア、日本の勢力の角逐の場だった。1895年に日清戦争で日本が勝利し、朝鮮で中華秩序が崩れてしばらく力の空白期ができた。日清戦争で朝鮮支配の野心の半分を達成した日本を、南下するロシアが遮った。日本はロシアの満州鉄道経営の特殊利益を認めるのでロシアは日本の朝鮮支配を認めるよう提案した。ロシアは朝鮮半島の北緯39度線より北側を中立地帯にしようとして対抗した。世紀が変わっても日露間の外交交渉に進展がない間に日本では軍部を中心に戦争論者らの勢力が力を増した。戦争をしたいロシアの軍事指導者は東洋の「黄色いサル」との戦いは戦争というよりも「軍人たちの散策」と自信を持っていた。1903年末に至り東洋の浮上する帝国と西洋の沈む帝国は戦争のレールの上を向かい合って走る2つの機関車の格好だった。