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【コラム】ビスマルクはこうした=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.10.05 15:58
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ビスマルクはすでにフランスとの戦争を準備していた。 プロイセンの敗戦を望んで中立を守ったナポレオン3世は、中立の見返りにライン川左岸の領土を要求した。 ビスマルクは当然、拒否した。 ウィーン体制は、英雄ナポレオンがヨーロッパ大陸に伝播したフランス革命の効果を遮断・無力化する保守体制だった。 このため英雄ナポレオンの甥ナポレオン3世にとってウィーン体制は目障りなものだった。 ビスマルクがオーストリアとの戦争でウィーン体制に最終的な死亡宣告をしたのは有り難いことだが、統一されたドイツが登場し、ウィーン体制の代わりに大陸の強者になることは阻止しなければならなかった。

ビスマルクは南部ドイツの国家と秘密同盟を結び、ロシアとオーストリアからは中立の約束を取り付けた。 モルトケの主張通り1866年の戦争でプロイセンがウィーンを占領していれば、ビスマルクはフランスと戦争をしながら背後を心配しなければならなかったはずだ。 準備する者にチャンスは訪れる。 1868年に空位になったスペイン国王の席をめぐり争いが生じたのが導火線となり、フランス・プロイセン戦争が起きた。 勝利は準備した者が手にした。 ビスマルクはオーストリアとフランスの干渉と影響力を順に除去し、1871年に4王国、18公国、3自由市、2帝国領を持つ歴史的な統一国家を実現させた。

 
ビスマルクのすべての対外政策は戦略的・有機的につながっている。 ビスマルクは常に先を眺めて駒を動かした。 キッシンジャーは著書『外交(Diplomacy)』で、“瞬間のムードに合わせて全体戦略とは関係がない”指導者の行動を警戒した。 ナポレオン3世は外交的な業績で国内問題を解決しようとしたが失敗したというキッシンジャーの指摘は注目に値する。 現在の韓日中関係が最悪であるのも、3カ国指導者の言行が瞬間のムード、新聞の見出しやニュースだけに合わされるからだ。 韓日両国の首脳の相手に対する言行が特にそうだ。 1890年にビスマルクが現実主義外交(Real politik)という不滅のモデルを残して退任する時、欧州メディアが一斉に「水先案内人の下船」として今後の欧州の平和を深く心配したというのは、どれほど教訓になるだろうか。

金永煕(キム・ヨンヒ)国際問題大記者


【コラム】ビスマルクはこうした=韓国(1)

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