【噴水台】「駐日公使は残してほしい」 皇帝の哀願が拒否された日、独島も密かに島根県に編入された(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.08.31 15:53
日本が大韓帝国外交官召還工作を韓国政府に公式提起したのは5カ月後の1905年2月22日だった。 林公使はこの日、高宗皇帝に会い、韓国の使臣を召還しようと要求した。 高宗は概して同意し、「韓日関係を考慮して駐日公使はずっと残したい」と頼んだ。 林の返事は冷たかった。 「その必要はありません」。
1905年11月17日の乙巳勒約(乙巳条約)締結を契機に、在外公館職員の召還は急速に進んだ。 日帝の「先に召還、後に閉鎖」方針は露骨に「先に閉鎖、後に召還」方針に変わった。 高宗が2万5000ドルで購入したワシントン公使館の建物も1910年に日帝に奪われた。 私たちが最近350万ドルを投じて取り戻したビクトリア様式の建物だ。 痛恨の歴史の教訓を忘れてしまえば、いつでも悲劇が繰り返されるおそれがある。 高宗が「駐日公使は残してほしい」と哀願して拒否された1905年2月22日はどんな日か記憶しているだろうか。 日帝が独島(ドクト、日本名・竹島)を自国の領土だとし、大韓帝国にこっそりと島根県告示をしたちょうどその日だ。