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【時視各角】韓国とアジア主義

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.03.23 16:00
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最近、中東・イスラム圏で広がっている民主化の波を「オリエンタリズム(Orientalism)」に対する一撃と見る視点がある。文学理論家エドワード・サイド(1935-2003)は著書『オリエンタリズム』(1978年)で、「中東・イスラムに対する西欧の誤った思い込み」を暴露した。オリエンタリズムによると、中東・イスラム圏で民主主義が花が咲くのは不可能だった。中東・イスラム圏の人々は独裁・権威主義と合うということだ。イスラムは共産主義と類似の理念体制だと主張しながらを蔑んだ学者もいた。

大きく見ると、サイドが言うオリエンタリズムは、西欧中心主義(Eurocentrism)の一つの支流を形成する。西欧中心主義は世界を西欧中心的な観点でながめる視角だ。無意識的に西欧文化の優越性を強調する。興味深い点は、サイドのオリエンタリズムや西欧中心主義は、オリエンタリズムと西欧中心主義が西欧で退潮する時期に出てきた用語ということだ。西欧は自らオリエンタリズムと西欧中心主義を否定する。今日、西欧でオリエンタリズムや西欧中心主義を堂々と擁護する人は誰もいない。オリエンタリズム・西欧中心主義は世界統合主義・グローバル化・汎地球主義・地球主義に翻訳されるグローバリズム(globalism)に代替されてしまった面がなくはない。

 
オリエンタリズムと西欧中心主義は、ケンブリッジ大の張夏準(チャン・ハジュン)教授の表現を借りるなら、「西欧が蹴飛ばしてしまった梯子」なのかもしれない。世界の残りに対する優越感を含蓄したオリエンタリズムと西欧中心主義は西欧の発展に一定の役割をした。しかし今では西欧自らが‘偏狭な’オリエンタリズム・西欧中心主義ではなく、グローバリズムを通して民主主義・人権・平等のような人類の普遍的価値と理念を標ぼうする。

グローバリズムを盲目的に追えば、私たちが属するアジアはアジア主義・汎アジア主義(Asianism・Pan-Asianism)を打ち出せない。アジアにも明らかに守らなければならない固有の価値と利益があるにもかかわらずだ。

グローバリズムの世界でもアジア主義は必要だ。世界と個別国家の間はかけ離れたものではない。大陸があり、地域があり、文明圏がある。「私は誰なのか」という問いに対する答えには「私は人間だ」「大韓民国の国民だ」「世界の人だ」だけがあるのではない。「私はアジア人だ」という返答の次元がある。アジア主義は私たちが世界を眺める観点を多様にしてくれる。

日本大地震や中東・アフリカの政治激変をヒューマニズムや民主主義のような人類普遍の価値で見ることはできる。しかし何となく寂しい。アジア主義的な観点で見れば、私たちがアジア人としてやるべきことがもっと鮮明に浮かんでこないだろうか。

私たちの目の前に見えるグローバリズムは西欧から出発したものだ。西欧の歴史と文化と伝統が強く染み込んでいる。西欧が作ったグローバリズムでは、例えば中東問題は永遠に解けないのかもしれない。解答はアジア主義から出発したグローバリズムにあるのかもしれない。

今後、アジア主義の浮上は必然的とまでいえる。国際秩序の中心が西欧からアジアに移動している。アジアが世界の中心になる時、その3つの軸は中国・インド・日本と予想される。3カ国はともに過去にすでに自国中心のアジア主義を標ぼうした歴史がある。3カ国を中心に新しいアジア主義が提示される可能性が高い。

韓国はアジア主義を先導できないとしても、アジア主義の形成に参加して重要な役割をしなければならない。そうでなければオリエンタリズム・西欧中心主義時代のように歴史の主役にはなれない。幸い、韓国はアジア主義の発展に決定的な役割になる資質を備えている。民主化と産業化をともに成し遂げた底力がある。これはアジア全体と分かち合える貴重な経験でもある。さらに私たちの地で、インド・中東・中国から出発した仏教・キリスト教・イスラム教・儒教が共存の道を進んでいる。宗教文化的にはアジア全体が韓国の中にあるのだ。

キム・ファンヨン中央SUNDAY社会エディター


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