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100歳のベトナム戦争の英雄「韓国を憎んでいない」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2011.03.07 17:08
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--米国との戦いは違ったのでは。

「ディエンビエンフーの勝利は米国との戦争で大きな教訓になった。そして68年、ベトナム全地域で一斉に攻撃を断行した。軍事的作戦でありながらも政治・外交的な作戦だった。米軍を掃討することはできなくても、戦争の意志を失わせることはできると判断した。迅速かつ大胆に戦うことで二つの戦争で勝てた」

 
1911年にベトナム中部アンサ地方で富農の子として生まれた彼は、ショパンが好きで、フランスの歴史に心酔した学生だった。歴史の教師と記者を務めた彼が本格的に武装独立運動に加わることになったのは、1939年に中国に渡り、「ベトナム建国の父」ホーチミン(胡志明)に会ってからだった。一度も正式に軍事教育を受けたことがない彼だったが、アレクサンダーから孫子にいたるまで名将の兵法に通達していた。

彼の名声が本格的に輝き始めたのは、1954年にベトナムとラオスの接境で行われたディエンビエンフーの戦いだった。圧倒的な武器で武装したフランスだったが、ザップの知略が加わったベトナム人民の意志に無惨に壊滅した。ザップは韓国戦争(1950-53)当時に中国が奪った米軍の105ミリ砲の支援を受けたが、これを隠すためにディエンビエンフーの戦いまでは絶対に使用できないようにした。この過程でベトナム人は3カ月間、密林を通って100余台の大砲を素手で引っ張っていった。一引きに3センチずつ、一日平均800メートルずつ移動するという想像を絶する苦難の行軍だった。

--戦争で最も難しかった瞬間は。

「ディエンビエンフーの戦いの前の53年末、私たちはすでにフランス陣地を奇襲攻撃する準備を終わらせた状態だった。しかしフランス側を見ると、臨時幕舎だった陣地が鉄甕城に変わっていた。そのまま攻撃すれば敗れるかもしれない状況だった。ホーチミンは『100%勝つという確信がある場合に限り攻撃しろ』と指示したことがある。このため攻撃を延期し、戦略を変える必要があると同僚を説得した。しかし攻撃を先送りすれば、命をかけてジャングルの中を引っ張ってきた大砲などを戻し、隠れ場所で移さなければならなかった。多くの人々が数的に優勢だから攻撃すれば勝てるとして退却に反対した。それでも私は撤収を強行した」

--米国とフランスに対する考えは。

「彼らとの戦いは帝国時代の副産物だった。ベトナム人はこうした国に対してさまざまな見解を持っている。戦争を体験した人たちと、75年のベトナム戦争終息後に生まれた人たちの間には相当な差がある。ベトナムは中国との戦いから1000年間の戦争の歴史を持つ。しかしはっきりしていることは、戦争が終わればみんな友人として過ごすということだ。私たちはもうフランス軍や米軍を憎んでいない。戦後に足を失った米軍参戦勇士と夫人が訪ねてきたことがある。夫人は反戦の歌を作曲した人だ。ベトナム戦争の終戦はベトナム人だけでなく、戦争に反対した米国人にとっても勝利だった」


100歳のベトナム戦争の英雄「韓国を憎んでいない」(1)

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