주요 기사 바로가기

【噴水台】延坪島

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.11.25 15:17
0
12歳で即位した朝鮮の高宗(コジョン)の最初の命令は「桂洞(ケドン)の焼き栗商人を処刑しなさい」というものだった。 驚いた臣下が事情を尋ねると、こう答えた。 「私が一つだけくれといっても焼き栗をくれなかった。本当に行いが悪い」。もちろん「それはなりませぬ」という引き止めに雅量を示したが。 ある人は、興宣大院君が権勢を振るう安東金氏(アンドンキムシ)を牽制しようとしたともいう。 とにかく幼い高宗にとって焼き栗は我慢できないほどのおやつだったのだ。

そのためか。 高宗時代に京畿(キョンギ)民謡「焼き栗タリョン」が登場する。 「風が吹く、風が吹いて…」で始まる歌詞は「延坪(ヨンピョン)の海に金の風が吹く…」と民謡のリズムで流れる。 「金の風」とは、「朝鮮の台所」である延坪島にイシモチ海市場が開かれたという意味だ。 鄭文基(チョン・ムンギ)は1939年に発行した『朝鮮石首魚攷』で「数百隻の船で‘船島’ができ、漁船の火が水面に反射する美しさは朝鮮の一大異彩」と書いた。 石首魚はイシモチを意味するが、頭に硬い骨があり「トルテガリ(石頭)」という名前が付いた。 当時、延坪海市場には申告された料理店が300カ所、飲食店53カ所、カフェ1カ所に登録された酌婦が95人だった。 しかし実際は未登録の酌婦500人に、日本の妓生(キーセン)も50人ほどいたという。 ここに「3日稼いで1年を暮らす」という言葉が由来するというのだから、「金の風」は虚言ではなかったのだ。

 
しかし一方的な乱獲で種が激減した。 地球温暖化で回遊経路が変わったのか。 1960年代には1万トンに達していたイシモチの漁獲高が、72年には1348トン、さらに76年には36トンに減った。 イシモチがいなくなると、住民も離れた。 落島の危機から延坪島はワタリガニで起死回生した。 これも韓中朝の‘ワタリガニ三国志’に、漁民が「ワタリガニはどこへ行ったのか、中国船だけが残った」と怒りを爆発させているが。

その延坪島にまた風が吹く。 今回は火薬のにおいが立ち込めた危険な風だ。 世界大戦も一発の銃声で始まったが、これは火遊びを越えて武力挑発だ。 本色不変なのか。 延坪島出身で夭折した奇亨度(キ・ヒョンド)詩人は『埃だらけの青い紙』で「埃だらけの青い紙は青色だ。 どんな埃もその色を変えられない」と書いた。 それでも‘時々暗くて空っぽの希望の中に入っていく’私たちは忍耐か。 宿命か。 北朝鮮は相変わらず居直っている。 「犬がほえる。 犬がほえる。 表情もなくむやみにほえている」焼き栗タリョンの最後の節だ。

朴鍾権(パク・ジョングォン)論説委員

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP