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誰が安重根を「半分」にしてしまったのか

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.01.27 13:21
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今年初め、文化体育観光部(文化部)が主催した新年音楽会がソウル芸術の殿堂(瑞草区瑞草洞)で行われた。

主催側であるため、久々に瑞草洞(ソチョドン)を訪れた文化部の幹部ら数人が同じ構内の書芸博物館に立ち寄った。普段足を運ばない人々が久々に訪れるということだから、博物館側は大歓迎し、気合を入れた。たまたま安重根(アン・ジュングン、1879~1910)義士の遺墨展が開催中で、案内のため史料まで一つひとつ用意したという。

 
しかし予想は外れた。文化部の幹部は何の展示が開催中なのかも知らずにいた。役員らの関心は書芸博物館のビルだった。この空間を文化部傘下のほかの機関が使えるようにしてほしいという意思を示したということだ。ひょっとして文化部長官が立ち寄るのではと期待していた関係者はあっ気にとられた。

昨年「安重根義士の義挙100周年」、今年「殉国から100年」を迎え、それぞれ企画された「安重根遺墨展-独立を超えて平和へ」を観覧した政府官僚は現在まで国防部長官が唯一だという。2月15日まで延長展示に入ることになったのも、展示場を訪れた市民のおかげだ。現場を守っている企画者によると、展示を見る前と後、観覧者の態度が大きく変わる。

枢密院議長・伊藤博文を処断した義兵隊長としか安義士を認識していなかった人々が、同氏が獄中で残した字を見た後は、自ずと尊敬心を示して涙ぐむ。1910年2月14日に死刑を言い渡された後、獄中で、筆をとりはじめた安義士の字は、死を芸術に変えた劇的な結果物と言える。世界史にこうした例は極めて稀であろう。

同年3月26日に死刑が執行されるまで、ただ約40日間で炎のように燃やした心で書いた字だ。31歳という短い人生で、いかにしてあれだけ深く学べたものか、頭が下がる。いち早く安義士のこうした全貌に気付いた出版社・悅話堂(ヨルファダン)の 李起雄(イ・ギウン)代表は「安重根の戦争、終わらない」の改訂版を出し「一言、一言が東洋の古典の中に咲いた花だった」と感歎した。

「万一、安義士が残したものが字ではなく、絵だったとすれば」と想像してみる。恐らく途方もない反響があったはずだ。漢文を避けて書芸の伝統を逃してしまった子孫により、安義士の真の心が閉ざされてしまった。

安重根義士は片手にはピストルを、もう一方の手には筆を握った「文武兼備」の文人であった。これまでわれわれが主に見てきたのは武人・安重根だった。「半分」だったわけだ。

ほかの一方には、幼いころから個人指導を行う先生の下で、東洋の古典と漢文の教育を受けた文人、安重根がいる。カトリックの洗礼を受け、フランス語の教習を受けるほど西洋の文物を受け入れるのに積極的な姿も見える。学校を設けた教育の啓蒙家であり、国債補償運動を率いた社会活動家であった。同氏が、裁判の法廷で上告をあきらめ、命を担保にしてまで時間を稼ぎ、完成しようとした「東洋平和論」はこうした複合的な背景から生まれたのだ。

庚戌国辱(1910年、日本の侵略による韓日併合で国権を喪失したこと)から100年目となる今日、我々はどうか。鳩山由紀夫首相の「東アジア共同体」を並べ立てて「主要20カ国・地域(G20)」を話しまくり、忠清(チュンチョン)地域に建設中の世宗(セジョン)市や4大河川整備事業をめぐる口論ばかり繰り広げる政治家らが、いざ安重根義士が打ち出した「東アジア平和論」は知っているのだろうか。

日本の月刊誌「世界」が安義士の「東アジア平和論」を特集として扱い、公営放送・NHKが韓国で数週間も滞在して特番を作っているのに、韓国人自身はぼうっとしているだけだ。安義士をめぐり、くだらない意見の隔たりを口実に組分けばかりしている。お金を集めるやら建物を建てるやら騒々しいが、いったい誰のためのものなのか疑わしい。記念館をどんな内容で埋めるかについて悩む姿も見当たらない。

中国・明代末期の書家、董其昌は「様式の束縛を脱却できるなら、これは、網を脱した魚も同然」とした。安義士の筆で書いた字がまさにその魚である。ボタンひとつ残さなかった安義士が唯一残した遺品の字を繰り返し見て、研究しなければいけない理由だ。「安重根遺墨展」が開かれている書芸博物館こそ、その熱い討論の場になりうる聖所と言える。国民をいらいらさせる甲論乙駁で年が変わったことにすら気付かずにいる政治家こそ「安重根遺墨展」を訪れ、頭を下げ、竹箆(しっぺい)で叩かれたような字の意を知るべき時点だ。



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