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絹の着物姿の安重根、死を達観した瞳(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.01.26 12:41
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独立運動家・安重根(アン・ジュングン)義士は1910年3月15日に自伝「安膺七歴史」を脱稿する。

続いて「東洋平和論」の執筆に着手した。しかし「東洋平和論」を完成するには時間があまりにも足りなかった。予定された死刑を15日ほど延期してほしいと要請したが、結局、受け入れられなかった。この部分について、栗原貞吉の手紙で注目される一節は次の通りだ。

 
「『東洋平和論』も執筆しはじめ、現在、序論が終わった。(…)本人は徹底して『東洋平和論』の完成を願い、死後、必ず認められると信じているため、最近、論文の著述を理由に死刑の執行を15日ほど延期してほしいと嘆願したが、許可してもらえないという。結局『東洋平和論』の完成は望みにくいようだ」。

栗原が見るには、安重根は徹底して「東洋平和論」の完成を願っており、死後、必ず認められるものと信じていたのだ。安重根の「東洋平和論」は100年が過ぎた現在、東アジア共同体をめぐる談論の元祖であると同時に、欧州共同体の誕生より70年も先に示された平和構想として再評価されている。安義士は侵略と支配ではなく、平和と共存の東アジアを希求した。

安重根の最期について特に注目すべきものは監獄で書いた遺墨(生前に残した字や絵)だ。遺墨はいずれも死刑判決(2月14日)以降に書かれた。それもすべて日本人の要請により書いたものだった。上告もあきらめ、死を控えていた31歳の「丈夫、安重根」の字体に乱れはない。東洋平和の精神がきちんと表現された遺墨としては、次の詩が挙げられる。

「東洋の大勢を考えればはるか遠く暗い(東洋大勢思杳玄)/志ある男ならいかにして安らかに眠ることができようか(有志男児豈安眠)/平和の政局を成し遂げられず、この上なく嘆かわしい(和局未成猶慷慨)/侵略政策を見直さないから実に哀れに思う(政略不改真可憐)」。

この詩は、栗原が送った手紙の受信者サカイに渡したものとされている。死刑の執行を1日後に控えた25日、サカイ警視が「東洋平和論」の未完を残念がって、安義士に結論だけでも書くよう要請しようと注文した詩だということだ。栗原の、手紙の形を取った報告書の原本は1月25日、芸術の殿堂・書芸博物館「安重根遺墨展」の延長展示で鑑賞できる。

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