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「迫撃砲で日本船撃退」 50年代の独島義勇守備隊

2005.03.16 20:20
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「独島が竹島だって?怒りで眠れもしない。 政府が独島の管理を怠ったからだ」。

1953年4月から56年12月までの3年8カ月間、独島義勇守備隊として活動したチョン・ウォンドさん(76)、イ・ピルヨンさん(81)、イ・キュヒョンさん(80)ら歴戦の勇士らが、16日、一堂に会した。 この日、日本島根県議会が「竹島の日」を制定したというニュースを黙って聞くことはできなかった。

 
彼らはこの日午前、自分たちが住む鬱陵島(ウルルンド)苧洞(チョドン)港のあるコーヒーショップに集まり、義勇守備隊時代を回想しながら今回の事態に鋭意注視していた。 チョンさんは「李承晩(イ・スンマン)大統領当時、独島を基点に平和線を引き、日本船がこれを越えた場合は拿捕(だほ)するなど、強力に対処していた」とし、「当時のように強硬に対応していれば、こうした事態は起こらなかったはず」と悔やんだ。

彼らが独島義勇守備隊として活躍したのは、韓国戦争(1950~1952)後の53年。 チョンさんは韓国戦争で負傷し、名誉転役した後、故郷に戻っていた。 鬱陵島の漁民らが「独島に‘日本領’と書かれた札が打ち込まれている」という話を伝えると、彼らはホン・スンチョル隊長の後を追って動き出した。

イ・キュヒョンさんは「洪隊長の提案で数人が集まって話し合った後、53年3月、義勇守備隊を結成し、4月に初めて島に入った」と当時を振り返った。傷痍軍・警が中心になって構成された33人の隊員の中には、4人の民間人も含まれていた。 独島へ向かう船は、当時、イカ漁をしていたイ・ピルヨンさんが6トン船を用意し、解決された。

彼らは独島の西島(ソド)に入り、「日本領竹島」と書かれた木の札を探し出し、これを取り除いた。 隊員らはその後、2つのグループに分けて1カ月に一度ずつ、独島を守った。 西島の岩を掘り、その中で過ごしたが、夏には蚊と、冬には暴風や寒波とたたかった。 洪隊長はどこで手に入れたのか、迫撃砲(81ミリ)を準備し、隊員らにはM1とカービン小銃を1丁ずつ持たせた。 これが武装のすべてだった。

その後、ついに交戦が起きた。 56年9月に日本巡視船が独島に接近したため、守備隊が迫撃砲を発射し、船上に落ちた。 チョンさんらは「数時間後、日本のNHKラジオで、2人が負傷したというニュースを隊員らと一緒に聞いた」と話した。 独島義勇守備隊は独島に50日以上滞留することもあった。

「後に日本国内で抗議が強まり、56年、政府が警察に守備任務を引き継いだ。 その際、守備隊への補償は全くなかった…。 独島博物館に戦跡碑や功労碑でも一つ建ててくれればよかったのだが…」。

独島義勇守備隊は現在、鬱陵島と浦項(ポハン)、蔚山(ウルサン)、慶州(キョンジュ)など全国に12人が生存している。 切なさの中でこの日、老兵らの回顧には終わりがなかった。

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