【コラム】アジアであることを拒んできた日本のジレンマ(2)
日本の近代史が、常に脱亜の方向だけで進んだわけではない。興亜を掲げたアジア主義が頭角を現した時期もあった。とくに満州事変をきっかけに日本が国際連盟を脱退した1930年代がそうだ。アジア諸国と連帯し、欧米帝国主義の侵略に対抗すべきだという大義名分ではあったが、その本質においては、日本を中心とした“日本版”華夷秩序構築という構想が骨格を成していた。しかし、脱亜論であれ興亜論であれ、いずれも膨張主義と結びついていたという点で、アジアは依然として対外拡張欲望の対象だった。結局、ユーラシア大陸の両端に位置し、アジアを再構成して政治的・文化的に威圧してきた二つの膨張勢力が、太平洋戦争を通じて東南アジア各地を戦場としたのは、必然の成り行きだったのではないか。
敗戦後、文化国家を掲げた日本は米国との同盟体制の下で、欧米との関係を強化した。経済復興に邁進した末、世界第2の経済大国となり、西側先進国G7の一員となった。日本のアジアへの関心が特に大きくなったわけではないが、経済大国・日本を中心とした地域国家間の分業体制が形成された。いわゆる「雁行モデル」だ。雁が群れをなして飛ぶ姿は、上下が逆になったV字型だ。日本が先頭を飛び、その後ろを韓国・台湾・香港・シンガポールといったアジアの四龍が続いた。そのさらに後ろには、タイ・ベトナム・マレーシアなどASEAN(東南アジア諸国連合)諸国がいた。誰もが記憶している1970~80年代の東アジア地域の産業発展モデルだ。力を誇示できた過去とは性格が違ったが、日本はアジアの盟主としての地位をほぼ一世紀にわたり維持してきたといえる。