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日本に慰安婦の責任を問う…金文淑氏の生涯を通じて見た「関釜裁判」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2023.04.18 07:25
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慶尚南道(キョンサンナムド)の昌原(チャンウォン)大学は大学博物館「チョ・ヒョンウク・アートホール」で「関釜裁判と終わらないHerstory」展を開催している。2月15日から始まった展示会は5月19日に終わる。今回の展示は「関釜裁判」と原告訴訟団を率いた元挺身隊問題対策釜山(プサン)協議会理事長だった故金文淑(キム・ムンスク)氏の生涯にスポットライトを当てている。関釜裁判は地方裁判所の1審判決ではあるが、日本司法府が自国の慰安婦制度の存在と国家的次元の強制動員だったことを認めた裁判だ。2018年女優キム・ヒエが主演した映画『the Herstory』の主題になったこともある。関釜は下関と釜山の地名にちなむ。

関釜裁判を引き受けた山口地裁下関支部(1審)は1998年原告一部勝訴の判決を下した。裁判部は原告側が提起した5種類の請求のうち「立法不作為による国家賠償責任」を認めた。1993年日本軍慰安婦募集の強制性を初めて認めた河野洋平官房長官の談話(河野談話)以降も日本政府が賠償立法義務を果たさなかったという理由だった。だが、1審宣告は2001年広島高等裁判所(2審)で覆り、2003年東京最高裁判所(3審)で敗訴が確定した。

 
原告だった釜山在住の慰安婦(3人)・勤労挺身隊(7人)被害者10人は訴訟を提起した1992年から1審判決が下されるまで6年間で26回、釜山と下関を往復した。23回の公判に出席し、直接被害事実を証言するためだった。移動した距離だけ1万1101キロに達した。当時被害者の平均年齢は65.8歳だった。

これら原告訴訟団を率いた団長が金文淑氏だった。1927年に慶尚北道永川(ヨンチョン)で生まれた金氏は梨花(イファ)女子大を卒業した「エリート女性」だった。永川と慶尚南道晋州(チンジュ)で教師として働いていたが、1965年釜山アリラン観光旅行会社を設立して「釜山女社長第1号」になった。1981年には釜山女性経済人連合会を設立した成功した女性経済人だった。女性運動にも率先していた金氏は1986年に家庭暴力被害者のための「女性の電話」を釜山に設置した。

金氏が慰安婦・勤労挺身隊問題に関心を持つようになったのは60歳を過ぎてからだった。1990年「日本人の韓国キーセン観光」を反対していた金氏にある日本人が慰安婦を言及しながらだ。その日本人は「昔は我々にはお金がなくてあげられなかったが、今は金をあげるといっているのに、なぜできないようにするのか」と話したという。金氏は1991年から「日本軍慰安婦被害申告電話」を運営した。金氏が余生を慰安婦・勤労挺身隊被害者支援に才能と財産、時間を投じた「覚醒」の瞬間だった。

当時、金氏が書いたエッセイ『50年ぶりの血の涙』(1991年)には同時代を生きた女性たちが慰安婦と勤労挺身隊で苦痛を受けている間、自分は植民地の名門校で皇民化教育を受けたことに対する悔恨と省察が含まれている。金氏は2004年、釜山に「民族と女性歴史館」を開館するなど2021年に亡くなるまで慰安婦問題を知らせるために尽力した。展示を準備した昌原大学史学科のシン・ドンギュ教授は「展示場で関釜裁判とその中で金文淑という一人の人間が努力し献身したことが歴史の流れをどのように作っていったのかを見ることができる」と話した。

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    2023.04.18 07:25
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    1993年、下関裁判所から出てくる慰安婦・挺身隊被害者と金文淑(キム・ムンスク)理事長(左)。[写真 民族と女性歴史館]
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