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「日本もやったこと、韓国がなぜできないか」李秉チョル半導体、こうして始まった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.06.07 07:45
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「私たちの会社の日本人エンジニアが韓国のサムスンに半導体講義に行ったところ、ある社員が途中から立ち上がって講義を聞いたという。座って聞くよう話したところ、その社員は後で抗議混じりの愚痴を並べたてたという。講義の前に軍事訓練を受けてきてとても疲れて眠たかったということだった。それだけ大変な時代で、それでもみんな本当に熱心だった」。

南北間の緊張状態が続いていた1980年代初めから半ば。半導体事業を始めようとしていたサムスンで起きたことを浜田成高博士(98)はこのように回顧した。

 
30年連続で世界のメモリー半導体市場で1位の「サムスン」を知っている人は多くても、サムスンの半導体、その始まりを記憶する人は多くない。サムスン創業者の李秉チョル(イ・ビョンチョル)会長(故人)の半導体顧問として活躍した浜田博士と先月31日に東京都東大和市の自宅で会った。浜田博士は「半導体産業で韓国が日本の先を行くのは、遠くを見て決断するリーダーがいたため。いま日本に必要なものは李秉チョル会長のようなリーダー」と話した。

◇64K DRAMと李秉チョル会長

静かな住宅街にある彼の家に入ると居間の片隅に置かれた李秉チョル会長の自叙伝が目に入った。李会長の直筆のサインが入れられた本だ。浜田博士はサムスンの半導体事業初期、サムスンに多くの影響を与えた人物で、「李秉チョル会長のメンター」「サムスン半導体の隠れた助力者」に挙げられる。

李会長との初めての出会いは1980年代初め、東京にあるサムスンの事務所だった。東京大学電子工学科を卒業してNTTで働いていた浜田博士はNTTが半導体技術輸出に向け設立したNTEC(エヌテック)で専務として働き、サムスンの社員に技術講義をした。その過程で李会長とも近づくことになったが「韓国経済を立派にさせたい」という情熱と人柄に引かれたという。

「会長とは詳細な技術に関することでなく、今後世界がどうなるのかに対する話をたくさん交わしました。その時李会長がこのように話しました。『韓国人は日本人ととても似ている。日本人が成し遂げたことは韓国人も必ずできる。そこで半導体技術を導入したい』と」。

彼は李秉チョル会長が半導体事業に対し「深く考え惜しみなく投資するという印象を受けた。常に未来に対する話をしながら、さまざまな産業に半導体が使われるだろうという点を察していたようだ」と話した。

◇「サムスン半導体成功すると思った」

莫大な生産施設が必要な半導体事業に対する投資はこのようになされた。李会長は1983年2月に半導体事業構想を発表した。3年以内に失敗するだろうという懸念にも莫大な資金が投入され、同年12月にサムスンは64K DRAM半導体の開発を伝えた。世界で3番目だった。

インタビューをした浜田博士は居間にあった64K DRAMを取り出して見せた。箱には金箔で「サムスン半導体通信」という字が彫られていた(サムスンはその後1992年に各種情報を保存するメモリー半導体のDRAM市場で1位を取ってから30年にわたりトップの座を維持している)。

浜田博士はサムスンの半導体成功を予想していたと話した。研究所次元の技術と実際の工場で行われる「量産」の間には大きな差が存在するが、サムスンはすでに失敗の苦味を知っていたためだ。「サムスン電子のある部長が1日にテレビ4000台を作ったが全部不良が出たとし苦しんでいました。量産とはそれだけ難しいのです。こうした痛みを経験したならば半導体もやり遂げられる、日本を跳び超えることもできると想像しました。そして予想より早く日本を追い越しましたし」。

「日本もやったこと、韓国がなぜできないか」李秉チョル半導体、こうして始まった(2)

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    2022.06.07 07:45
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    先月31日に東大和市の自宅でサムスンの半導体の始まりを告げた64K DRAM開発成功(1983年)の記念品を見せる浜田成高博士。クォン・ヒョクチェ写真専門記者
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