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【時視各角】ウクライナアリラン

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.03.14 12:02
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1952年にウズベキスタンの古都サマルカンドで生まれたファン・ポリーナ氏の家族はあちこちに散って暮らしている。ロシア沿海州で生まれた親もそれぞれ別のところに墓地がある。1937年にスターリンの強制移住政策で中央アジアに来た父は、スターリンの死後に居住地制限が撤廃されると、1962年に懐かしい沿海州に戻り、そこで息を引き取った。

父が他界すると、母と弟らはウクライナのクリミア半島に渡った。1979年にウクライナに農業をしに行った弟が翌年、母を迎えた。肥沃な土壌のウクライナで新しい生活を築いた。母は2004年に死去し、弟ら4人はクリミア半島に残った。ウズベキスタンで農学を専攻したファンさんはタシケント付近の高麗人の村に定着した。

 
ファンさんは時々、親が歌っていた「アリラン」を口ずさむ。「アリラン、アリラン、アラララ/アリラン峠を越えていく」。1995年に訪韓したファンさんは「私にとってアリランは故郷であり韓国だ」と話す。旌善アリラン研究所のチン・ヨンソン所長の論文『中央アジア高麗人アリラン研究』(2015)の一部だ。

高麗人社会ではファンさんと似た状況の人が少なくない。いわゆる離散(ディアスポラ)の経験はファンさんらの共通分母だ。さらにウクナイナの高麗人は二重苦を経験している。ロシアとウクライナの間で、時には家族の分裂もある。1942年にカザフスタンで生まれ、1962年にウクライナのキーウ(キエフ)総合技術大学で電気を専攻したコンスタンチン・ボリソビッチさんのケースがそうだ。

ボリソビッチさんは現地主流社会に入って成功したケースだ。結婚後にキーウに定住した。2人の娘は結婚してドイツとポーランドで暮らしている。ボリソビッチさんの子どものようにウクライナの若い高麗人は英国・チェコ・ドイツなどに移住することが多い。「ウクライナには希望がない」と考えるからだ。2014年3月のロシアのクリミア半島併合以降に生じた現象だ。ボリソビッチさんはロシアに残った兄との関係がこじれた。ロシアの兄はプーチン大統領を支持するが、ウクラニアの弟は自由を失うことを心配する。高麗人バージョンの東西対立だ(コ・ギヨン氏の論文『ウクライナの国内外的葛藤状況が高麗人個人の人生に及ぼした影響』)。

中央アジアの高麗人はなぜ西側の遠いウクライナにまで行かなければならなかったのか。生活のためだ。中央アジアの痩せた地で暮らしていた高麗人は1956年、居住地の移転が認められると、ロシア各地に新しい生活拠点を求めて出ていった。この時に「季節農業」が注目された。3月の春季にウクライナ南部、カスピ海周辺などに臨時農地を準備してタマネギ、スイカ、マクワウリなどを栽培した。農繁期が終わる10月ごろに家に戻った。

これは家族単位の小共同体で運営された。通常40-100人で構成された。高麗人の勤勉性のため収益性は良かった。1985年にゴルバチョフのペレストロイカ(改革)政策で合法化し、さらに活気を帯びた。1991年にソ連が解体すると、徐々に消えていった。半面、中央アジアの各国が独立し、ウクライナの高麗人とロシアの高麗人の間に見えない壁が生じることになった。

ウクライナの高麗人に関する正確な統計はない。3万人前後と推定される。ロシアのウクライナ侵攻で高麗人も避難のために荷物をまとめている。1863年に咸鏡道(ハムギョンド)の農民13世帯が沿海州に初めて移民をして以降160年近く続いた「アリラン行列」だ。ウクライナの悲劇が米国(西側)とロシアの衝突を越え、我々の戦争ともいえる理由だ。

アリラン研究所のチン・ヨンソン所長は最近、心配ばかりしている。ウクライナの高麗人の知人らと連絡が途絶えているからだ。「高麗人は東西を横切る『さらに大きな世界』の境界に立っている。歴史の荷物ではなく共に未来を開く歴史の橋頭堡だ」。もちろんこれは高麗人だけの問題ではない。狂気じみたプーチン大統領の戦争で多くの民間人が犠牲になっている。「血と涙の川」(フランシスコ教皇)が一日も早く終わらなければならない理由だ。韓国の積極的な参加も求められる。

パク・ジョンホ/首席論説委員

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    2022.03.14 12:02
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    中央アジアの高麗人は農繁期に居住地を離れて農地を団体で借り、タマネギ、スイカ、ネギなどを栽培した。「アリラン」は高麗人を癒やす故郷の音楽だった。 [写真=国立民俗博物館]
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