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【コラム】日清戦争で惨敗した中国 「海軍力増強」に総力戦(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.02.26 15:53
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北洋艦隊が敗戦した原因はいくつかあるが、決定的な問題は清の内部の権力構図によるものだった。当時、清で実権を握っていたのは満洲族の摂政・西太后だった。1889年に光緒帝が18歳の成年になると、西太后は摂政から退くことを宣言した。そして西太后は北京の西側に頤和園という壮大な別荘を建て始めた。別荘の工事に巨額の費用がかかり、海軍の予算も建設費用に転用された。

財政問題が浮上すると、北洋艦隊を維持するのが難しくなった。新しい戦艦の導入どころか、1891年からは弾薬の購入も中断するしかなかった。1894年7月、北洋艦隊の実質的な首長だった李鴻章は「定遠」「鎮遠」の主砲の砲弾が3発しかないという報告を受けたが、どうすることもできなかった。北洋艦隊は自ら崩れたということだ。

 
西海海戦で敗れた後、旅順にあった北洋艦隊は1894年11月、山東省威海の劉公島に移った。しかしすでに制海権を喪失した状況で北洋艦隊は日本の艦隊に対抗できなかった。1895年2月4日、「定遠」は日本軍の魚雷攻撃を受けて大破し、2隻の戦艦が沈没した。完全に傾いた戦勢を覆せる見込みがないと判断すると、提督・丁汝昌は自決した。2月14日に清軍は降伏、日本軍は劉公島を占領し、「鎮遠」など戦艦10隻を戦利品として獲得した。北洋艦隊が壊滅する瞬間だった。

◆西海を自国の海にしようとする中国

日本の海軍に渡った「鎮遠」は数カ月間の修理の後、1895年7月4日に日本に到着した。日本政府は「鎮遠」を公開する行事を大々的に開き、集まった日本人は熱狂した。「鎮遠」は日本艦隊の一員となり、日露戦争に参戦した。「鎮遠」が老朽化すると、日本海軍は1911年11月に「鎮遠」を射撃練習の標的とした。屑鉄となった「鎮遠」は売却され、その代金は海軍兵学校の講堂を建設する費用に充てられた。かつて東アジアを号令した「鎮遠」が日本海軍の射撃練習の標的となり、屑鉄の塊りになったのだ。

1945年の日本の敗戦以降、国民党政府は錨や鎖など「鎮遠」の残存遺物を中国に搬出した。そして中国政府は劉公島に甲午戦争博物館を建設した。博物館の出口には「喚起吾国千年之大夢、実自甲午一役始也」(わが国の千年の大きな夢を喚起せよ、それは日清戦争から実行するのだ)という梁啓超の言葉がある。屈辱を忘れないという苦闘が感じられる。

今日はどうか。最近、中国は海軍艦艇を次々と建造している。全体の戦艦数はすでに米国を上回るほど海軍力の増強に拍車を加えている。

清と日本の海軍が最初に衝突して日清戦争が始まったのは牙山(アサン)湾の楓島(プンド)沖だった。自国の海で清と日本が交戦した当時、朝鮮はただ眺めていた。自国を守る能力がなく、両強大国の勝負を固唾をのんで見守るしかない悲惨な立場だった。あれから120年ほど過ぎた今日、中国の戦艦がペクリョン島の目の前に出没している。西海を自国の内海にしようとする中国の動きが尋常でない。今日の我々は中国よりも悲惨だった過去のことを記憶しているのだろうか。

ハン・ミョンギ/明知大史学科教授

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    2021.02.26 15:53
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    中国劉公島にある甲午戦争(日清戦争)博物館。 [写真=ハン・ミョンギ]
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