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<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族3>慰安婦被害者の娘、七十の人生の烙印はいつ消えるのか(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.09.04 15:01
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私が母を恥じなければならないことなのか。母親たちには罪がない。日帝強占期の被害者という不幸を越えて、いまや女性の人権のために戦う母親たちではないのか。ナヌムの家が京畿道広州市退村面(キョンギド・クァンジュグン・テチョンミョン)に建てられると母親もここに移り住む。

「生活安定支援金として一時に4300万ウォン(現レートで約384万円)を受け取ると、息子を神様のように思っていた母は兄さんに4000万ウォン、一人暮らしをしている私には200万ウォン、妹には主人がいると言って100万ウォンを分けます」

 
日本政府は95年7月、「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、国民基金)を設立し、各国の慰安婦被害者に慰労金を支給すると発表する。被害国では反対運動が起きる。被害者は国民が募金した慰労金でなく「日本政府の法的賠償」を望んだ。

96年10月、韓国では被害者支援のための汎国民募金が始まり、IMF通貨危機の中でも12億ウォンが造成された。政府はここに予算を加えて98年5月から生活安定支援金として4300万ウォンを支給する。朴玉蓮さんが受け取って子どもたちに分けたのがこのお金だ。政府はこの時、被害者から国民基金をもらわないという覚書を受け取り、公式に国民基金を受けた7人は受給者から除外した。

実際、日本国民基金側は7人を含めて計61人に基金を支給したという。拒否する被害者を懐柔するなど、卑劣な方法で極秘裏に基金の支給を強行し、被害者の間で不信と葛藤が深くなった。覚書を書いても基金を受け取った被害者1人は自責の念にさいなまれ、お金の出処を明らかにしないで5000万ウォンを公益財団に寄付することもした。

大学に進学したイム・ミョンオクさんの娘は復学生の恋人とキャンパスカップルになり、99年4月にニュージーランドに留学に行った。その娘から孫娘を産んだという知らせが入ってくる。夫の世話しながら自分は学業をあきらめた娘だった。イム・ミョンオクさんはニュージーランドに行って娘の産後を助けながら2カ月を過ごした。

そしてその帰り道、飛行機に乗り込みあふれた涙が仁川(インチョン)空港に降り立つまで止まらなかった。大田の家に戻り、誰もいない家に座り込んだ時、また涙があふれてきた。

数日後、寂しい心情を落ち着かせようと母親の元を訪ねて行ったのはナヌムの家だった。母親と一緒に暮らし、調理士として働いてほしいという提案を受ける。「私はお前といればよいが、あのおばあさんたちの煩さに耐え抜けるのか」という母親の心配があったが、母親と一緒に暮らそうという決心が先んじた。イム・ミョンオクさんは2000年5月、ナヌムの家調理士として入った。

気を引き締めて始めたナヌムの家の生活だったが、決して順調な毎日ではなかった。一人で裏山に登って流した涙を今になって話しても何の足しになろうか。世の中に怖いものがなかった母親たちに苦しめられ、団体写真を撮るときも母親の横に立つことすらはばかられ、遠く離れていなければなかった。米が底をついてソウルへ僧侶を訪ねて行って米をもらいに行き母親たちのご飯を炊いたこともあったし、地域のスーパーに掛買い代金を支払うことができず手ぶらで帰ってくる日もあった。そのころのナヌムの家の事情がそのようにさせた。

2011年春に朴玉蓮さんがこの世を去った。「日本の謝罪と賠償のための長い戦いが何の結実も見られないままいなくなるんだ」。それが恨めしかった。

母親は兄がいる大田の市立公園墓地に埋葬した。所長の口添えで1級療養保護士の資格を取ることができたイム・ミョンオクさんは母親が亡くなった後もナヌムの家で療養保護士として働きながら2017年に定年退職した。母親と一緒に暮らそうと始めた歳月がほぼ20年、空しく流れていた。少なくとも母親と兄の近くで暮らそうと大田(テジョン)に家を求めた。

近頃は一人で市立公園墓地に向かう後ろ姿がより寂しくなった。納骨堂を見つめ、心の中で問いかける。「お母さん、今は安らかですか」。200歳まで生きると話していた母親からは言葉がない。目じりを拭い背を向けようとするところをみると、まだ涙が残っているようだった。

娘イム・ミョンオク、彼女の人生には娘として、母親としての彼女はあるが、一人の女性としての彼女はない。慰安婦の娘、妾の娘として生きなければならなかった彼女があり、海外に住む娘の産後を助けて帰ってくる飛行機の中でずっと泣かなければならなかった彼女もいる。しかし、美しくて活気に満ちていなければならない女性イム・ミョンオクが、ごまを叩きながら家族が帰ってくる夕方の戸口を眺めても喜ぶような普通の女ミョンオクではない。

悲劇の底に隠れているのは「ある家族を破滅させた日本」だ。日帝強占期の最も残酷な被害の余震の中に生きなければならなかった慰安婦被害者の娘、避けられなかった不幸の相続だった。最後のインタビューを終わらせて彼女がこう語った。

「私は烙印がたくさん押された人間です。慰安婦の娘に妾の娘、そのうえ離婚の女に、また一人暮らし。雪ぐことのできない恨(ハン)を抱いて生きている人間です。このような話をすれば、夜に清心丸(漢方薬)を飲まないと寝ることができません。心の中は腐りきってドロドロになり、命が長いから仕方なくそれを克服しようと我慢して生きてきました。私の心の中がどうなっているか、分かりますか」

※編集者の言葉

「あっちが朝鮮だ」

作家ハン・スサンの小説『軍艦島』は日本に連行された徴用工のこの言葉から始まる。中央日報光復75周年企画「日帝強制動員、奪われた家族」は徴用工がそれほど懐かしく思った「あっちの朝鮮」に残された息子・娘の話だ。彼の小説の中で、命をかけて軍艦島脱出を試みた朝鮮人は徴用工である前に一人の父だった。27年間の調査と考証の末、軍艦島に連行された父の死闘を小説として完成させたハン・スサン氏が、残された強制動員被害者の息子・娘の生存記を中央日報に記録する。 

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    2020.09.04 15:01
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    久しぶりに母親を伴った旅行で、朴玉蓮さんとイム・ミョンオクさんが仲良くポーズを取っている。イム・ヒョンドン記者
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