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日本を最初に越えたのはサッカーだった

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.08.15 16:25
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14日、光復(解放)74周年を迎え、京畿道高陽市で1954年の初の韓日戦の写真が展示された。東京明治神宮競技場でチェ・ジョンミン(左から2人目)が日本のGKとDFの間でゴールを決めている。 高陽=ビョン・ソング記者
1954年3月7日、東京明治神宮競技場。4-1とリードした後半40分、チェ・ジョンミン(1983年死去)は日本のGKとDFの間で足を出しながらとどめのゴールを決めた。1954年スイスワールドカップ(W杯)予選の韓日戦は選手にとって戦争と変わらなかった。転んで走るというプレーを繰り返した末、韓国が5-1で勝った。

日本の領土に太極旗(韓国の国旗)が掲揚されると、選手と在日韓国人は涙を流した。この日の勝利をきっかけに韓国はW杯本大会に進出した。

光復(解放)74周年を迎え、京畿道高陽市(コヤンシ)ワンマウントスポーツクラブで14日、当時の写真が展示された。「負ければ玄海灘(大韓海峡)に落ちて死ぬ」という決意が込められた誓約書もあった。

当時2ゴールを決めたチェ・ジョンミンの娘ヘジョンさんは「父が必死に頑張ったという話を母から聞いた」と語った。このストーリーを扱った映画『東京大捷(仮題)』は来年末の公開に向けて準備中だ。映画制作者のチャ・スンジェ東国大映像大学院教授は「初めての日本戦で克日を成し遂げたという意味がある」と語った。

解放後、韓国が最初に日本を越えた分野がサッカーだった。ソン・ギリョン大韓サッカー協会審判運営室長は「サッカーは日帝時代の天皇杯から我々が上回っていた」と伝えた。元韓国代表FWの李会択(イ・ヒテク)さん(73)は「1960-70年代に我々が日本に教えられることはサッカーしかなかった。サッカーは国民の自尊心だった」と回想した。韓国サッカーは日本との対戦成績で41勝14敗23分けだ。

根深いライバル意識は21世紀にも続いた。2007年のアジアカップ日本大会で李根鎬(イ・グノ)と中村俊輔がもめると、李天秀(イ・チョンス、38)が中村のほおを叩いた。李天秀は「日本大会を控えてみんな笑顔が消えた。インタビューではあえて『韓国の方が強い』という言葉を繰り返した。自分に催眠をかけたかった」と語った。

中央DF金敏在(キム・ミンジェ、23、北京国安)は昨年、日本とのジャカルタ・アジア競技大会サッカー決勝を控え、チームメートに「負けたら帰りの飛行機から飛び降りよう」と話した。李康仁(イ・ガンイン、18、バレンシア)は6月、U-20(20歳以下)W杯決勝トーナメント初戦の日本戦を控え、ファンに「愛国歌(韓国の国歌)を大きな声で歌ってほしい」と呼びかけた。

韓日戦では劇的なゴールもあった。李敏成(イ・ミンソン、46)は1997年9月、フランスW杯のアジア予選で鋭いミドルシュートを決めた。

2010年5月に埼玉で行われた親善試合でゴールを決めた朴智星(パク・チソン、38)はゆっくり走りながら沈黙した日本応援団を眺める「散策パフォーマンス」を見せた。

李承佑(イ・スンウ、21、ベローナ)は昨年のアジア競技大会決勝で日本自動車企業の広告看板の上に立ってパフォーマンスを見せた。

日本大会で敗れると必ず「惨事」という表現が登場した。2011年8月10日の親善試合での0-3の大敗は「札幌惨事」として記憶される。1968年メキシコオリンピック(五輪)の予選で3-3の同点でバーに弾かれるシュートを放ったキム・ギボクさん(75)は「得失点差で日本が五輪に出場した。天が崩れ落ちるような気持ちだった。生涯、惜しまれる場面として残っている」と語った。

韓国と日本は12月18日に釜山(プサン)で開催されるE-1チャンピオンシップ(東アジアカップ)で対戦する。2017年E-1チャンピオンシップで韓国は日本を4-1で下したが、2010年からそれまでの7年間は2敗3分けだった。

日本の経済報復で韓日関係が悪化した中、すでにこの試合に関心が集まっている。1985年11月のメキシコW杯最終予選の日本戦でゴールを決めた許丁茂(ホ・ジョンム)さん(64)は「選手時代は日本を地球最大の敵だと考えた」とし「代表チーム監督時代には選手に『感情的にするのではなく自分たちの試合をしよう』と伝えた」と話した。キム・ギボクさんは「スポーツと政治は分離しなければいけない。正々堂々と戦って我々が勝利することを望む」と語った。

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