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<変わった北、変わらない北(3)>金正恩の側近が党・政・軍を掌握

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.04.20 15:50
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北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長は15日、故金日成(キム・イルソン)主席の誕生日を迎えて遺体が安置された錦繍山(クムスサン)太陽宮殿を参拝した。金正恩は新年や各種記念日に党・政・軍の幹部を連れてここを訪れる。しかし今回は軍部の幹部が随行名簿から抜けた。国営メディアの報道や公開写真のどこにも軍関係者は見えなかった。金正恩が2月16日に故金正日(キム・ジョンイル)総書記の誕生日を迎えて参拝した時も軍の幹部はいなかった。北朝鮮体制の属性上、最高指導者に随行するかどうかは権力の尺度となる。

金正恩は3月末の電撃的な訪中でも軍の幹部を排除した。2000年に金正日が執権後初めて訪中する時、軍部を率いる趙明禄(チョ・ミョンロク)総政治局長と金英春(キム・ヨンチュン)総参謀長が随行した。趙明禄は金正日執権時代、事実上のナンバー2だった。総政治局は軍内の人事と思想統制権を持つ「軍の中の党」と呼ばれる。しかし今年に入って地位が大きく落ちた。

 
◆軍の地位低下、金正恩の訪中でも排除

金正覚(キム・ジョンガク)総政治局長は11日の最高人民会議(国会)の人事で3人の国務委員会副委員長に含まれなかった。副委員長だった前任の黄炳瑞(ファン・ビョンソ、現労働党副部長)とは違い、委員に補足任命された。イ・ギドン国家安保戦略研究院副院長は「北は今まで最高人民会議主席壇を党→軍→政(内閣)の順序で報道したが、今回は党→政→軍に変えた」とし「党と国家体制を固める過程で軍の地位が低下したとみられる」と分析した。

北朝鮮権力エリート内の軍部の地位低下は金正恩時代の特徴だ。党優位の社会主義政権の原点に、金日成時代に戻った。執権中、軍部を優待して先軍政治を前面に出した金正日の時代とは違う。金正日は1990年代の「苦難の行軍」など国家非常状況で軍部を統治と建設の核とした。金正日は96年、「信頼できるのは軍隊だけ」と述べた。「銃隊精神」という言葉も生まれた。金正恩による党中心体制の整備は内政の正常化とみられる。

◆人民武力相を6人交代、忠誠心を誘導

軍部の人物の浮沈は目がくらむほどだ。国防部長官格の人民武力相(現朴永植)は金正恩執権以降6回も交代した。1年に1人のペースだ。その間、金英春・金正覚・金格植(キム・ギョクシク)・張正男(チャン・ジョンナム)・玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)が務めたが、短期間で交代したり処刑されたりした。金日成の執権46年間に5人が、金正日の17年間に3人が人民武力相を務めたのとは対照的だ。合同参謀本部議長に該当する総参謀長も同じだ。李英浩 (イ・ヨンホ)→玄永哲→金格植→李英浩 →李明秀(イ・ミョンス)と交代を繰り返した。全賢俊(チョン・ヒョンジュン)又石大招聘教授は「金正恩は軍の幹部を随時交代して緊張させながら忠誠心を誘導している」と話した。かつて一線の指揮官が軍閥に例えられるほど肥大化した軍部を手懐けるためということだ。

金正恩は党・政・軍の要職も自身の側近で満たしている。一定期間は後見人の助けを受けるという一部の観測は外れた。2011年の金正日の葬儀で霊柩車を囲んだいわゆる「霊柩車7人組」が代表的だ。当時の金己男(キム・ギナム)・崔泰福(チェ・テボク)党書記、張成沢(チャン・ソンテク)国防委副委員長、李英浩総参謀長、金英春人民武力部長、金正覚総政治局第1副部長、禹東則(ウ・ドンチュク)国家安全保衛部第1副部長の運命は分かれた。李英浩と張成沢は2012年と2013年に反党宗派分子と見なされて処刑され、そのほかも一人、二人と退いた。

◆8年前の政治局32人のうち5人だけ残る

その後は「三池淵(サムジヨン)8人組」が登場した。張成沢処刑直前の2013年11月、金正恩の三池淵訪問に随行した黄炳瑞元総政治局長、金養建(キム・ヤンゴン)党書記(死亡)、馬園春(マ・ウォンチュン)国務委員会設計局長(党副部長)、韓光相(ハン・グァンサン)人民軍中将(元党財政経理部長)、朴泰成(パク・テソン)党副委員長、金炳鎬(キム・ビョンホ)労働新聞社責任主筆、ホン・ヨンチル党副部長、金元弘(キム・ウォンホン)元総政治局第1副局長だ。金正恩の側近も安心はできない。黄炳瑞と金元弘は軍服を脱いだ。黄炳瑞は組織指導部に復帰したが、金元弘は北朝鮮メディアが「同志」と呼ばない点からひとまず粛清されたとみられる。金脈と建築物設計の責任を担った韓光相と馬園春も平壌(ピョンヤン)順安(スンアン)国際空港を改築する過程で金正恩の指示に従わず、思想教育を受けて復帰した。金正恩が平壌の顔である順安空港を国際レベルで建設するよう指示したが、「状況に合わせて」建設しようとしたため指示不履行による処罰を受けたのだ。

世代交代は鮮明だ。2010年9月の労働党第3回代表者会で政治局候補委員以上になった32人のうち昨年10月まで席を守ったのは金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長と崔竜海(チェ・ヨンヘ)党副委員長ら5人にすぎない。金正日時代の国政最高機関の国防委員会(現国務委員会、12人)は全員交代した。人民武力省、総政治局、総参謀部、海空軍司令官および戦略軍司令官など軍の指揮官も同じだ。党の核心である組織指導部と宣伝扇動部、公安組織の国家保衛省と人民保安省のトップも新しい顔だ。元老グループを統治の屏風として活用するのではなく、容赦のない処刑と刑罰を通じた恐怖政治と抜てき・昇進の「ムチ」「ニンジン」で、権力内に金正恩の側近を植え込んでいるのだ。

◆「後見人政治」ではなく権力固め

キム・ジンム淑明女子大国際関係大学院教授は「金正日政権末期に公開活動への随行が最も多かった31人のうち24人は現在活動を中断するなど世代交代が進んだ」とし「金正日時代の各種機構は象徴的な意味だけが残っている」と説明した。また「人事では該当分野の専門性があるか、現場での経験が多い人物を重用している」と話した。

世代交代で政治局構成員の年齢は2010年の72.73歳から昨年は68.9歳に下がった。政府当局者は「7年経過した点を考慮すれば構成員が11歳ほど若くなった」と説明した。これは党書記だった金己男・崔泰福ら80代後半の人物が退陣し、60代の人物の補充とともに30代の金正恩と金与正が布陣したからだ。

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