日帝が線路を敷いて半分になってしまった独立活動家の家(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.08.16 14:22
臨清閣は朝鮮中期の1519年に建てられた。世宗(セジョン)の時期に答辞最高の中央官職である領議政(ヨンイジョン)を務めた李原(イ・ウォン)の六男で、霊山(ヨンサン)の県監だった李増(イ・ジュン)が安東に入ってきてここに住処を定め、その後は李増の三男で中宗(チュンジョン)の時期に官職の刑曹佐郞を歴任した李ミョンが臨清閣を建築した。
臨清閣がノブレス・オブリージュを象徴する空間として名を馳せるようになったのは李相龍先生のころからだ。李先生を中心に、一家から独立活動家だけで9人が輩出された。息子の李濬衡(イ・ジュンヒョン)公(1875~1942)、孫の李炳華(イ・ビョンファ)公(1906~1952)、弟の李相東(イ・サンドン)公(1865~1951)、おいの李衡國(イ・ヒョングク)公(1883~1931)と李光民(イ・グァンミン)公(1895~1946)らが独立運動を行った。夫人のキム・ウラク女史(1854~1933)と嫁のイ・ジュンスク女史(1875~1944)、孫の嫁ホ・ウン女史(1907~1997)まで合わせると一家12人が独立運動に参加した。